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使徒18

使徒18、Ⅱ歴代誌13−14 「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがああなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』」使徒18:9−10 パウロは迫害されても反対されても大胆に福音を語ってはいた。しかし、さらに主からの明確な保証をコリントでは得たのであった。 「この町には、わたしの民がたくさんいる」とキリストが宣言してくださったので、パウロは1年半、宣教旅行の休止とも言える長い期間を費やしてコリント教会の開拓を行った。 その間にプリスキラとアキラはパウロの良い同労者となり、さらに彼らがアポロに教えていった。弟子訓練がこうしてなされていったのである。 雲をつかむような、先の見えない状況であっても、神様の働きは休むことなく行われている。地方教会でも、小さな開拓教会でも、主の召しとご計画は良いものであり今日も進んでいることを信じる。

詩篇66

詩篇64−66、Ⅱ歴代誌10−12 「神よ まことに あなたは私たちを試し  銀を精錬するように 私たちを練られました。」詩篇66:10 昨日、ある方から15年ぶりに電話をいただいた。10年ほど、人生の荒野とも言える葛藤を歩んでおられたこと。一度は生きていることもやめようかと思ったそうである。しかし、神様はその方を見捨てず、自分にひどいことを言った人々を許し、祝福を祈れるまでにしてくださった。 祝福を祈れるようになってから、神が新しい召しを与え、思いがけない働きや和解が次々と起こって来たそうである。 ダビデも、サウルから逃げる生活を続けた。パウロも、回心後アラビアの荒野で数年過ごした。 荒野は神と出会う場所、神の恵みを再確認する場所である。そして、荒野で過ごした者は銀で精錬されるように信仰の勇者と変えられていくのである。

詩篇65

詩篇64−66、Ⅱ歴代誌7−9 「あなたはその年に 御恵みの冠をかぶらせます。   あなたの通られた跡には 油が滴っています。」詩篇65:11 「冠」は「コロナ」とも訳せるとのことである。 どんな年であっても、神様は祝福を持って良いもので満ち足らせようとしてくださる。苦難の年も、停滞したように思える年でも、そこに神様が居られるなら油が滴る豊かな日々となる。 主よ、今年、今月、今日はあなたの油で滴っています。良い神様が、良いご計画で導いてくださっていると信じます。どうぞそれを悟ることができますように。今日の歩みも、あなたの道を歩めますように。

使徒17

使徒17、Ⅱ歴代誌4−6 「パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。『アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られていない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。」使徒17:22、23 テサロニケ、べレアを経てようやくアテネにたどり着いたパウロであったが、福音を語る情熱は彼を静かにはさせておかなかった。 アテネのアレオパゴスの真ん中に立ち、アテネの人にキリストを説明し始めた。しかも、アテネの人たちの宗教心を理解した上での話し方だった。 私たちには、パウロのような熱意があるだろうか。家族や友人がキリストに出会わないままで良いだろうか。連日、電車の人身事故のニュースが入ってくる。その人たちがキリストにある希望を知っていたら、教会の交わりに入っていたら、人生は変わっていたのではと思うと、自分にできるサイズ、規模からキリストを紹介したいと思わされる。種まきを続けていきたい。

使徒16

使徒16、Ⅱ歴代誌1−3 「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」使徒16:9−10 私は突発的な予定変更が苦手である。計画が狂うことへの混乱、そして自分自身の心が対応しきれないという部分がある。 しかし、パウロは聖霊の幻により、柔軟な変更を重ねていった。ビティニアに進まずトロアスにくだり(7−8節)、次にアジアでなくマケドニアに渡った(9節以降)。 そして、パウロだけではなく「私たちは」(10節)と宣教チームとして柔軟に決断したのである。 主の働きをする時に、思いと違う方向に導かれることがある。 人のわがままならそれは矯正しなければならない。しかし、聖霊がそうされるなら「はい、従います」と柔らかい心で返事をする者となりたい。

使徒15

使徒15、Ⅰ歴代誌28−29 「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。」使徒15:28 慣習に従って割礼を救いの条件としようとした人々に、使徒たちはいわゆるエルサレム会議ではっきりとガイドラインを示した。キリストの名のみに救いがある、と。 しかし、同じ誤りをクリスチャンは繰り返してきた。免罪符の販売もその一つである。そして、もしかすると、私たちも教会に来る人、洗礼を受けた人を、それ以上の基準でなければちゃんとしたクリスチャンでないないと誤解しているかもしれない。奉仕をしているとか、礼拝に休まないとか、献金を欠かさないとか、異言を語らないとかである。 もちろん、クリスチャンとして成長していくために様々な実践や態度の変化は大切である。しかし、最初の第一歩である救いは神からの恵みでしかないことを覚えていたい。裁きあったり自分の基準で評価したりするのではなく、神の愛と神の基準は何かを静かに思い巡らしたい。そして、不十分な信仰生活だと思える人を愛の心で励まし祈りで支え、共に成長させていただけるよう神に求めたい。

使徒14

使徒14、Ⅰ歴代誌25−27 「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を巻き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。」使徒14:19・20 かつてのパウロがそうだったように、キリストの名が広がるのを好まないユダヤ人は、わざわざ拠点の町からやって来て迫害をした。 パウロは瀕死の状態で、しかも引きずり出されたのだから、普通は死んでしまったことだろう。弟子たちが囲んでいた、とさらっと書いてあるが、ここには若いテモテも混じっていたと考えられる(2テモテ3;10−11)。 そして、彼らはパウロを囲んで観察していただけではなく、聖霊によって祈っていたに違いない。その結果、翌日は移動できるまでに回復した。まさに、主の奇蹟が行われたのである。 今まで、パウロの命がけの信仰が素晴らしいという視点で読んでいたが、今回ここを読んで、神の奇蹟がパウロ自身の上にも臨んだのだということに気付かされた。パウロもただの人である。肉体的には限界があった。しかし、信仰により、主の癒しと奇蹟を何度も受け取ったのだ。 私たちがパウロと同じ目に合うかどうかはわからない。しかし、働きや召しに応じた奇蹟を、神は行ってくださる。時間も能力も、自分の考える限界で計算しなくても、聖霊の働き、神のあわれみにより、神が望まれる働きにふさわしい力が与えられる。焦らず、安心して仕え、歩みたい。

使徒13

使徒13、Ⅰ歴代誌22−24 「二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、」使徒13:4 聖霊が聖別しなさいと命じられたアンテオケ教会は、バルナバとサウロのために断食し、祈った。手を置いて祈り、送り出した。 ここから本格的に海外への宣教が始まる。聖霊が動かれる通りに働きが進められていく。 私自身は、かつて直接海外に滞在して宣教することを願っていた。しかし、主の御心は日本にとどまり、地道に仕えることであった。その中で、自分が出ていくよりももっと多くの機会が与えられた(留学生、宣教師のケア、短期での各国への宣教の機会など)。そうして、思いがけない方法で主のわざが表されていくことを学んだ。 次は、送り出す側に回ること、励まし訓練して送り出すことを示されている。一人ではなし得ないことを、神様は教会という主のチームを用いて行っていかれる。

詩篇62

詩篇61−63、1歴代誌19−21 「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。  私の望みは神から来るからだ。」詩篇62:5 英語(NIV訳)では ”Yes, my soul” と、文字通り自分自身に呼びかけて確認している。落胆のときほど、自分の心をどう保つかが難しい。ダビデはよく知っていた。今が時でなくても待ち望め、そのことを心に言い聞かせた。待ち望むとは、今は何も起こらないが、必ずやがて何か起こるということの確認、そして期待できるお方がおられるのだという確信である。 今日待ち望んでいるものがあるならば、神の恵みと誠実さ、そしてこれまでいかに多くのものを与えられ、助けられてきたかを思い起こそう。

詩篇61

詩篇61−63、Ⅰ歴代誌16−18 「私は あなたの幕屋にいつまでも住み  御翼の陰に身を避けます。」詩篇61:4 ダビデが死に瀕していたか、あるいは非常な危険の中で荒野の果てにいたかという状況である。「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください」(2節)と率直な気持ちを出している。 私たちも絶対絶命のときがある。人生で荒野の中を彷徨うようなときがある。しかし、どこにいても神の住まいであるのだという事実がある。ダビデはそれに気づく。神は私たちがどこにいても変わらずそこにおられ、変わらずその御翼でかくまい守ってくださる。 疲れた時にはその翼の陰に身を寄せ、休むことを許してくださる神様が共にいてくださる。今日も、「あなたの重荷を主にゆだねよ」と声をかけてくださる神様を知る幸いを思う。

使徒12

使徒12、Ⅰ歴代誌13−15 「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」使徒12:5 目に見える状況は絶望的であっても、可能性がどんなに小さくても、教会はあきらめなかった。なぜなら、神には不可能はないと信じていたからである。この教会は一つの教会だけではなく、信者たちの群れ、「公同の教会」が一致して祈りに覚えていた。 神は奇蹟によってペテロを救い出された。一方、ヘロデは虫に噛まれて息絶えた。神の方法はいつも私たちの思いを越えている。今日も、あきらめないで、神の方法に期待して祈ろう。自分と周囲のことはもちろんだが、国や世界のためにも、信じる者の祈りが神の御手を動かすのである。

使徒11

使徒11、1歴代誌10−12 「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。」使徒11:24 バルナバが、聖霊に満たされ、信仰に満たされた、人格的にも良い人であったことが述べられている。伝道宣教において、私たちの人柄そのものも人々が見ていることを覚えたい。もちろん、うわべを よく見せるのではなく、聖霊が導かれるように、またみことばが日々の指針となって私たちに知恵を与え行く道を教えてくださるように。 理性、品性と聖霊に満たされていることとは両立するのである。教会の持ち味は様々だが、教会にも双方の満たしがあるようにと祈る。

使徒10

使徒10、Ⅰ歴代誌7−9 「そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」使徒10:34−35 コルネリウスは異邦人だったが、神を恐れ、敬虔で、非常な人格者として有名だった。ユダヤ教の感覚では異邦人が神に救われることはないという思いだったが、天使を通してペテロにその概念を打ち砕くよう神は働かれた。 前進して聖霊に導かれている教会は、神のみわざと導きをユダヤ人コミュニティの中で体験していた。いよいよ、さらに福音が世界に向けて伝わる時、まずリーダーであるペテロの概念を変えることを聖霊はなさった。そうして、異邦人への選びの器であるパウロが本格的に用いられていく。 神の働きは思いがけなく、しかし時には順序を追って段階的に進められていく。 今神が耕すように促しておられるところを耕すこと、それが次の動きへとつながって導いてくださることを確信したい。そのために、自分の常識や好みやプライドを、神の前に一旦手放し置くことを神は求められるかもしれない。

使徒9

使徒9、Ⅰ歴代誌4-6 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」使徒9:31 サウロの回心、そして暗殺計画など、目まぐるしく主のご計画と変化がもたらされる記述が続く。それらを受けて「こうして」と31節では言うのだが、こうして混乱した、でもなく、こうして教会が困難に直面した、でもなく、「教会は平安を得た」と書かれている。 なぜ平安を得ることができたのか。それは、聖霊様に励まされ、聖霊様とともに歩んでいったからである。 今日、聖霊の導きと声を聞いて歩みたい。自分の感情や目に見える状況だけでがっかりしないで、聖霊が共におられて神の良いご計画を日々とりなし願ってくださっていることを覚えよう。

使徒8

使徒8、Ⅰ歴代誌1−3 「散らされた人々は、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」 使徒8:4 ステパノの死と同時にエルサレム教会にも迫害が起こり、信者が追放されてしまった。悲しく、敗北の出来事にも思える。 しかし、それは福音がさらに広がるための、神の大きな計画のうちにあった。散らされた人たちは、各地で福音を伝えた。ピリポもそうであった。 そして、「その町には、大きな喜びがあった」(8節)、「宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った」(39節)のように、エルサレムにいただけではあり得なかった救いの喜びが広がっていったのである。 神は、私たちの悲しみや落胆を、なんと恵み深く深淵で大きな計画によって喜びに変えてくださる方だろうか。