投稿

ヨハネ18

ヨハネ18、1列王記8−9 「一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。」ヨハネ18:2 イエス様は、ゲッセマネの園でたびたび(しばしば)弟子と会われた。そして祈りの場所として定めておられた。イエス様の祈りの間、弟子たちが眠りこけたのも、そこが慣れた場所であったからかもしれない。 裏切り者のユダでさえ、その場所を知っていた。それは、イエス様が従来たびたびそこで会ってくださったからである。 私たちがどんな者であろうと、イエス様は会ってくださる。今日は、ゲッセマネの園ではなくこの場所で。「たびたび」ではなくいつも。 この特権に、どうして背を向け続けることができるだろう。 今こそ、イエス様の方を向いて祈り始める時である。

ヨハネ17

ヨハネ17、Ⅰ列王記6−7 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」ヨハネ17:3 「永遠のいのち」というと、つい死後のことと捉えがちである。しかしそれだけではなく、今も信じた時から与えられていることをどのくらい実感しているだろうか。 イエス・キリストを信じる前には死んだような状態だった霊が新しいいのちを頂き、生かされるようになった。それも、すでに私たちが永遠のいのちを生きている一つの表れである。 スタディバイブル(NIV Study Bible, Zondervan)には、 「永遠のいのちは現在も与えられている。それは、御子イエスを通して私たちが持つことのできる父との関係による」と解説されている。イエスがそれを可能にしてくださった。イエスの名において祈る特権が与えられている。それは永遠の次元につながる神様の恵みであり、死ぬまで待たなくても今日から私たちが持つことを許された、神との生きた関係、個人的な関係である。

ヨハネ16

ヨハネ16、Ⅰ列王記3−5 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 ヨハネ16:33 聖霊様が与えられることをお話しになった後、イエス様は弟子たちを励ましてくださった。そしてこの励ましは私達への励ましでもある。聖書は生きたことばであり、今日の私の暮らし、人生にも生きて働く力を持っている。 イエス様が「勇気を出しなさい(強くありなさい)」と言われるのには根拠がある。なぜならイエス様ご自身が『すでに世に勝った」からである。 十字架の救いのわざは、世の何ものも奪うことができないし、無効にすることもできない。たとえ心が責めても、確信がなくなっても、一度信じたなら永遠に有効である。もう信仰をやめた、と思っているクリスチャンは、自分が勝手にそう思っているだけで、神の側では忘れられることがない。 もっとも、「世にあっては苦難があります」ともイエス様は言われた。様々な困難や悩み、気にかかる出来事はあっても、そこに囚われるか、あるいはそこから目を離してイエス様を見上げることができるか。病や災害があっても、それを全てご存知で、変わらず守ってくださる勝利者なるイエス様がおられる。それを信じ続けることが信仰の歩みである。

ヨハネ15

ヨハネ15、Ⅰ列王記1−2 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」ヨハネ15:7 スタディバイブルには、「キリストの教えを知り信じることなしには、私たちは正しく祈ることができない」と書かれている。経験からも本当にそうだと思う。一生懸命祈っているつもりが、みこころを正しく理解せず独りよがりな願いになっていたり、神様の良い計画に完全に信頼できていなかったりする。 もしみこころを常に願っているなら、祈ったことはすでに聞かれたという信頼と確信が出てくる。あくせくせず、マンネリもせず、神様のなさることにゆったりと期待して待ち、希望を失わず、見えないものを見えるようにして望むものとなるだろう。 牧会者としての祈りは、教会の兄姉が神様をより信頼できるようにととりなすことである。決して神様は祈りを拒否しておられるのではない。愛する者により良いものと人格・信仰の成長をもたらそうとして忍耐の期間を与えられていると受け取れるよう寄り添うことである。それぞれが社会人として生きている大人であることを尊重しつつ、今日も神の深い愛を体験できるようにと祈る者である。

ヨハネ14

ヨハネ14、Ⅱサムエル記23−24 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 ヨハネ14:27 これから十字架にかかろうとする方が、逆に弟子たちに「平安を残します」と言ってくださる。それだけでも、イエスが神であるということの証拠になりそうである。もし死刑になることを知っていたら、誰がこのような発言をすることができるだろうか。 かえって、助けて欲しいとか、これからの逃げる計画などを相談したくなるのではなかろうか。 運命を受け入れるとしても、普通は「平安を残す」とまでは言えないように思う。 イエス様はそれをなさった。この世界に、神との和解という平安と喜びを残してくださった。 もっとも、それはこの夜すぐにではなく、一連の十字架への道行き、そして死と復活を経てもたらされた朗報であった。 祈ってもすぐに聞かれない時がある。それは忍耐が試され、練られる時である。そのような時に、イエス様のこのことばに信頼し、じっと待つことができたら、希望を失わずに待つことができたら、それは素晴らしい始まりとなる。人生の新たなチャプター(章)へと主が導いてくださる時となる。

詩篇50

詩篇49−51、Ⅱサムエル記21−22 「神の神 主は語り 地を呼び集められる。  日の昇るところから沈むところまで。」詩篇50:1 全地の王、支配者である主は、ただ黙って見ておられるだけではない。私たちを呼んでくださる方である。 どんな人にも救いを提供してくださる神、恵みのお方である。 海外の人とやりとりする中で、日本が「日の昇る国(東方にある国)」と形容されることがある。西方に対して東方の、という意味だが、福音がエルサレムから東の方に向かうと、日本は東のはて、文字通り極東である。世界地図の中心が日本ではなくエルサレムにしてみると、その様子がよくわかる。 そんな日本にも、神様の愛は変わりなく、限りなく注がれている。加害で救われた日本人が日本に定着できるように、また日本のクリスチャン人口が増し加わるように、そして神に呼び集められた民がともに祈り愛を持って隣人に仕えていけるようにと祈らされる。

詩篇49

詩篇49〜51、Ⅱサムエル記19〜20 「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ   滅び失せる獣に等しい。」詩篇49:20 なんと厳しい、しかし真実をついた言葉であろうか。 富と華やかな生活を求め、それがかなったとしても、幸せでない人が多くいる。 学生時代に家庭教師のアルバイトをしていた。慎ましく整理され、そこに笑顔が満ちている家庭もあれば、物や車は豪勢であっても見栄と刹那主義的な言葉が飛び交う家庭もあった。 お金や権力だけに目が止まっていると、余計に無くなるのが不安になって執着するようになる。それは人間の性質なのかもしれない。 神と富の両方に仕えることはできないとイエス様は言われた。 どちらを選ぶか。もちろん永遠のいのちに続く方だ、と即答できるか。 滅び失せる獣のような生き方よりも、忍耐しつつも見えないものを見えるようにして忍ぶ生き方を選択したい。

ヨハネ13

ヨハネ13、Ⅱサムエル記16−18 「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」ヨハネ13:1 イエス様がこれから通られる十字架の道のりをご存知であったことは疑いがない。その上で、最後まで「世にいるご自分の者たち」を最後の最後まで見捨てず、邪険にせず、愛してくださった。 イエスの愛は、生死がかかっても変わらない。そのことを再度考える朝である。昨日は聖書学校で証を書く時間に同席できた。一人一人の、大切な人生。それはイエス様が誰よりも愛し見放さずともにおられた年数の証でもある。なんと素晴らしいことか!

ヨハネ12

ヨハネ12、Ⅱサムエル記14−15 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」ヨハネ12:42-43 福音をありがたい、よい話だととらえ、好意を示していても、いざそれでクリスチャンとして生きることを問われると迷ってしまう人がいる。日本人としての体面、家の仏壇、日曜日の礼拝、献金など、いろんな制限が課されるように感じてしまうからかもしれない。 しかし、すべてひっくるめてキリストに明け渡した時、私たちは真に自由になる。びくびくする必要もなくなるし、主にあって開き直ることができる。十字架の後のアリマタヤのヨセフの行動もそうであった。遺体の引き渡しを願い、自分の墓を提供してからは、もう信仰についてとやかく言われても気にならなかっただろう。 生活を神様主導で進めるとき、神様が必要も知恵も満たしてくださる。そして、今までのようなやみくもな心配などからも解放されるのである。

ヨハネ11

ヨハネ11、Ⅱサムエル記12−13 「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 ラザロが死んで、イエス様は涙を流し、悲しみに寄り添ってくださった。その後も、癒しを行われる前にマルタやマリヤと何度も会話をしてくださっている。 早く、とか、要件のみ、とかいうことはされなかった。 ご自身の働く期間、そして十字架の死が近いこともご存知だっただろうが、あわてることをなさらなかった。 まったき平安、神の権威がそこにはあった。 墓から出てきたラザロの姿は、復活の主が墓の中に残した布の様子を想像するのに役立つ。体にぐるぐる巻きの布、そして頭には別の布であった。イエス様の復活では、それらが墓の中にそのままおかれていた。もう、この世の常識も風習も制限も、いっさいを超越した神の力と希望がそこにはある。

ヨハネ10

ヨハネ10、Ⅱサムエル記9−11 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」ヨハネ10:14−15 ヨハネ10章は「羊飼いの章」と呼ばれている。イエス様がどれだけ私たちを愛し気にかけてくださるかが、羊を世話する良い牧者にたとえられている。しかも、いのちを捨てるほどに愛してくださる覚悟ができていると、この時にはっきりとおっしゃった。そして、実際にそうしてくださった。言ったことを守られる、真実な神様の姿がここにもある。 その神様を知って信じることができるのは、これまた神様の恵みであり働きによるのである。くよくよと考える時、近視の羊が右往左往している姿を思い浮かべよう。まるで自分の姿のようである。羊飼いであるイエス様は、すぐそばで、微笑みながら待っていてくださる。そして、目を上げるとき、その優しい杖で導いてくださるのである。

ヨハネ9

ヨハネ9、Ⅱサムエル6−8 「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」」ヨハネ9:3 清書学院で聖書解釈学の授業を受けたとき、ヨハネ9章のこの箇所が私の割り当ての場所だった。当時はなんの気なしにセオリー通りにレポートを書き、提出した。しかし、10年以上たって息子の障がいが分かった時、この箇所がまた自分のこととして迫ってきた。そして、当時先生が拙い解釈をとてもほめてくださったことを思い出した。 それは、まるで神様がこの箇所のみこころをしっかりと覚え、忘れないように、とあらかじめ励ましておいてくださったかのようだった。 今思うと、その先生もお子さんのことでよく祈っておられた。先生自身もここから慰めと励ましを受けておられたのでは、と思う。 そして、私たちの場合は祈っても障がいが癒やされることはなかったが、息子はとても愛すべき存在になり、私たちの生活を日々楽しいものにしてくれている。また、息子を通して教会を多くの子供たちが訪れてくれ、福音に触れるきっかけが与えられた。神の栄光、わざが現れるための様々な用いられ方があるのだと、学んでいるところである。

詩篇48

詩篇46−48、Ⅱサムエル記3−5 「この方こそまさしく神。  世々限りなく われらの神。  神は 死を越えて私たちを導かれる。」詩篇48:14 この詩篇では46篇を裏打ちするように、神ご自身が聖なる都に臨在され守られることが歌われている(参照:1〜3節等)。 そしてこの神は、生きている時だけの神ではない。 地上の人生を終えてからも、限りなく神であられ、私たちをその後も永遠のスケールで導いてくださる方である。 信仰生活で、神概念が生きている間のことに限られがちだが、死の後こそ永遠という物差しで神の臨在のそばに憩うことができると考えると、なんと素晴らしいことか。「死ぬときはひとりぼっち」と言われるが、実際には生まれる時も死ぬ時も、神が私たちから離れておられることはない。むしろ、生と死を支配している神様がより近くそこにおられ、神のご計画と許しの元で生じるということを覚えていたい。

詩篇46

詩篇46−48、Ⅱサムエル記1−2 「やめよ。知れ。  わたしこそ神。  わたしは国々の間であがめられ  地の上であがめられる。」詩篇46:10 これを書いている2021年4月、コロナウイルスの感染拡大が止まらない。もう1年以上この状況が続いていて、医療崩壊までささやかれる昨今である。現代医学は素晴らしいという常識とは裏腹に、かえって医学も、科学も、技術も、常識も、政策も、人の力は感染症の前にまだまだ力及ばないということを実感させられる。 懸命に対応しておられる方々のために日々祈りつつ、自分自身の不安や先行き不透明の中でこの46篇が深い慰めとなっている。 災害の時も、どんな危機の時も、神が只中に住まわれる町は安全である。そして、ひととき静まり、手をとめ、神に聴き平安をいただくことが一番大切な行動であることを教えられる。 万軍の主がともにおられること、どんな時にもついておられることを思い起こし、確認し、実感することが、この1日のスタートである。

ヨハネ8

ヨハネ8、Ⅰサムエル記30−31 「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。」ヨハネ8:47 神のことば、神ご自身を理解しようとするならば、神を信じなければならない。イエス様のことを誤解し、屁理屈をつけようとするユダヤ人たちに対して、イエス様は神に属する者と属さない者の違いを言われた。 神に属する者となりたい。そして、心を開き、神に変えていただいたら、誰でも神に属する者になれるということを伝えていきたい。