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詩篇15

詩篇13−15、出25−26 「舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。」詩篇13:3 1節で「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか…」、どんな人が神と共に住まうことができるのか、と述べた詩人は、2節以降にその人の描写を列挙している。 様々な表現に一貫しているのはIntegrity(インテグリティ)すなわち「誠実さ」、「真実さ」である。 人が見ていても見ていなくても、神の前に真実であるか。責められるところがないように、スキャンダラスな話題に持ち上がらないような生き方をしているか。そこには、他者の悪口を言わないこと、中傷しないことも大切な要素なのである。自戒しつつ、周囲の徳を高めるために歩みたいと願う。

詩篇13

詩篇13−15、出23−24 「私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。」詩篇13:4 安息日、安息年の規定が出エジプト記23章にある。「しかし、7年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。(出23:11)」  6年耕し丁寧に育てた畑を、7年目は放置するというのは、人間的に考えるととても勇気のいることである。本当は例年のように整え、せっせと働く方が簡単なので、7年目に何もしないことは神への信頼を試される。 毎週1日の安息日を守るのも、これまた同様に神への信頼を試される。やり残した少しの仕事、返信など、やってしまいたい衝動に駆られる。しかし、そうして働いてしまった週は、どうもうまくいかない日々が続く。神に信頼し休むことを学ぶとき、神が備えてくださる方であることもまた学ぶことができるのである。

マタイ21

マタイ21、出21−22 「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」 マタイ21:42 神学的な見解の違いは近年多々あれど、神の思いは人の判断とは異なる。42節は詩篇118:22参照。 イエス様は、捨てられた石のような人の目には価値ないものが、要の石となると言われた。英語では「コーナーストーン(cornerstone)」、四方の石。コーナーとは角、そこで建物の向きが変わる。 人生のコーナー、角、向きを変えるところで向きを変えられるか。コーナーストーンがあることに気づき、生活スタイルだけでなく思いも変えられるか。許せない人を許すように、態度を変えられるか。今日はそのことが問われている。

マタイ20

マタイ20、出19−20 「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受けたのも1デナリずつであった。彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。」マタイ20:10−11 朝早くから働いた人も、夕方近くに来て少しだけ働いた人も、同じ1デナリをもらった。それに対して長く働いた人たちが不公平だと不満を言うところである。 この話は、神様の気前の良さと恵みの大きさがポイントである。後から来た人にも同じだけのものを与えてくださるという気前の良いお父様が、私たちの天の神である。 もし朝から働いた人と同じ側に立って不公平だと言うなら、それは自分がとても優れてできる者だと思っているからかもしれない。 むしろ、こんな私なのに同じ恵みが与えられたという夕方ぎりぎりに来た労働者のような、へりくだった思いになりたい。クリスチャン生活が長くなり、教会に仕える責任が増えるとつい朝から働いた人のような思いになりがちである。今日もう一度自分の内側を見つめ直し、イエス様がいつも前を進んでくださるように、自分はその影に隠されるようにと祈る。

マタイ19

マタイ19、出16−18 「しかし、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くの者が先になります。」マタイ19:30 神の国の価値観は、私たちには意外に思えるところが多くある。活躍していた先輩が後になったり、初心者が高くされたりするのだと聞くと驚く。 ここから学べることは、 ・神の基準は人の基準と異なる ・私たちの能力や地位では評価されない ・もしこれを聞いて腹を立てるなら、自分が優れていると思っている。 モーセですら、地上の誰よりもへりくだった指導者だった。 何かを行う時には、一つ一つ神の指示に従っていた。ただ一点、岩を叩いたことで(命じるだけで良いと言われたのに)、約束の地を前に地上生涯を終えたのだった。 能力、見かけのできる、できないではなく、神の前にどれだけ忠実、神に相談しているかが最終的な神の目から見た評価に繋がることを覚える。今日、神に聞きながら集会の準備をしたい。また、神に聞きながらミニストリーの計画を立てたい。神に聞きながら、体調と行動の決定をしたい。

マタイ18

マタイ18、出14−15 「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」マタイ18:3 子どもの頃はあんなに素直で単純で、喧嘩しても互いにすぐ謝って仲直りできたのに、大人になるにつれてプライドやしがらみや頑固さが身に付いてしまうものである。 「向きを変える」ようイエス様は言われた。「向きを変える」は「悔い改める」とも訳せる。 「向きを変える」というのは、すでにそうしたいと願うことが「悔い改め」、神に対して子どものような純粋な心でありたいと思いを起こされることである。それも神がそうさせてくださるのである。 子どものように神様にすがり走り、自分の弱さを打ち明け、罪を告白し赦され、同じように他者をも許す(21節以下の家来のようでなく)者とされていくのである。

マタイ17

マタイ17、出12−13 「まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」マタイ17:20 からし種ほどでも信仰があるのは、自分の力によるのではない。 信仰がなぜ与えられるか。その根拠は、まず神様が私たちを離れない、決して見捨てることはないと何度も何度も約束してくださっているからである。 「昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」(出13:22)、この力強い、頼れる、そして私たちを造られた神様が共にいてくださることである。

詩篇12

詩篇10−12、出9−11 「主のことばは 混じり気のないことば。 土の炉で七度試され 純化された銀。」詩篇12:6 1−3節の「人は互いにむなしいことを話し へつらいの唇と 二心で話します」という嘆きや、誠実な人が誰もいないような状況の中、頼りがいのない有限な人間と対比されている。 神の語られることばにはうそ偽りがなく、純銀のように混ぜ物がない真実で麗しい、という事実に感謝する。 もし心の内に何か声が聞こえたら、吟味しよう。 自分の恐れからか。サタンが巧妙に陥れ自信を失わせようとしているのか。それとも、神からの言葉か。平安と希望をもたらし、真実で変わらない、いつも共にいると言ってくださる神の愛のことばに耳を傾けていきたい。受け取っていきたい。

詩篇10

詩篇10−12、出7−8 「主よ あなたは貧しい者たちの願いを  聞いてくださいます。  あなたは彼らの心を強くし  耳を傾けてくださいます。」詩篇10:17 イエス様が心の貧しい者のことを幸いだと言われたのと一貫している(マタイ5:3)。マタイ5章では、その人は神の国を見ると書かれているが、詩篇10篇でも永遠の王である主(16節)が貧しい者たちの願いを聞いてくださる。何よりも、心を守ってくださるという恵みに感謝する。 決断ができない時、さまざまなことへの対応が迫られる今日のような時代に、耳を傾けてくださる主に何でも話し、永遠の王のみこころがなりますようにとゆだねることができるのは幸いである。それはまた、神の国が来ますようにという祈りとも一致する。

マタイ16

マタイ16、出エジプト4−6 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マタイ16:23 直前にキリストであると告白したペテロを、イエス様は大変喜び、ほめて、あなたの上に教会を建てると言われた(16−19節)。それにもかかわらず、23節では叱責された。 それは、神のことより人のことをより考えたからである。人情、人の快適さ、人間的な浅はかな思いを優先するとき、神のみこころが見えなくなってしまう。たとえわかっていても従おうとしなくなってしまう。イエス様はそれを戒めてくださった。 内にある恐れ、大胆さを失わせるような思い、みこころを避けようとする態度、それは神様が喜ばれない。もう一歩、自分の常識から神の領域に(こわごわでも)踏み出すこと。12年前から抱いていたクリスチャンのための交わりとセミナーが、来月スタートする。1年前には決してできない、と思っていたことであった。壁が高すぎると感じていた。しかし、人ではなく神が導かれた。世界中からの背後の祈りと、何よりも神のみこころは成るのだということを覚えたい。

マタイ15

マタイ15、出エジプト1−3 「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」マタイ15:32 イエス様が奇蹟を行ってくださる動機が、自分のすごさを見せるためでもなく、自分が満ち足りるためでもなく、人々が何も食べないまま空腹のまま帰宅するのはかわいそうだからとは! なんと優しい、愛と配慮に満ちたイエス様か。 イエス様に心から信頼して従うものを、イエス様は放っては置かれない。また、その時々の必要を、誰よりも心配し気にかけてくださる方である。感謝。

マタイ14

マタイ14、創世記49−50 「それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。」マタイ14:19b バプテスマのヨハネが殺され、イエスのこともヘロデ王の耳に入っている状況で、イエスは一旦しりぞかれた。しかし群衆を見て深くあわれまれ、癒しを行い、食物も与えられた。 弟子の任務は、わずかなパンと魚をイエスの元に持っていくこと、パンを群衆に配ることであった。 奇蹟は神のもの。そして、奇蹟を生きた体験にさせてもらえるところ、それを伝えるところを、神様は私たちにも委ねてくださった。 神様が、あえて私たちと共にすることを選んでくださるときに、恵みを覚える。今日はどの部分を神様が委ねてくださるだろうか。

マタイ13

マタイ13、創世記46−48 「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。」マタイ13:44 「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。」マタイ13:46 この章には「天の御国」のたとえが多く出てくる。 その中でこの二つのたとえは、どちらも同じ真理を教えている(NIV Study Bible)。神の国は大変に価値があるものだから、それを得るためには他のすべてを喜んで捨てるほどである、ということである。 他のたとえでは、やがて裁きがあって義と悪とが分けられることがわかる(24節からの麦と毒麦、47節以降の魚の網)。ただ、今この時点ではなく、やがてであることに着目したい。神は1人でも滅びることを望まず、天の御国の拡大のために私たちに労して欲しいと願っておられる。 そのことを厳粛に受け止め、素晴らしい天の御国が拡大するよう、自分の自我に死に、恥意識もまた主の前において、今日も1日歩めるように祈りたい。

マタイ12

マタイ12、創世記43-45 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです。」 マタイ12:28 あれこれと妬みや中傷をする者たちに向かって、イエス様は真理を話された。イエス様の働きはイザヤ42:1−4の成就でもあった(18−21節)。 28節の中で「神の国は来ている」ことを言われた。マタイは『神の国」「天の国」という語を福音書で用いている。、この後の章でも天の国について記録している。 どこか遠い、将来の漠然としたものではなく、すでに到来し、具体的な現実的なものであることがわかる。

詩篇9

詩篇7−9、創世記41−42 「主よ 彼らに恐れを起こさせ  国々に思い知らせてください。  自らが人間にすぎないことを。」詩篇9:20 高慢になり、神を神ともしない人に対して、神の前に悔い改め、キリストを受け入れてへり下る人物になるようにとはよく祈る。 一方で、必要以上に人を恐れる思い、自分を卑下し自信を失う想いに祈って勝利することは難しい。どうして良いか、諦めてしまいそうにもなる。 そんな自分に対して、恐れの対象が人間でしかないことを言い聞かせる。 同時に、自分の内面の思いも人間のものに過ぎないことを言い聞かせる。 人間への恐れ自体が偶像になっていないか、そのことも点検が必要である。 ヨセフが突然エジプトの牢からファラオの次の地位につき、エジプトの穀物を管理することになった時(創世記41:40〜)、「私は外国人だから」「私は囚人上がりだから」と自信をなくすことはいくらでもできたし、そうした嫌味をヨセフの耳元で囁いた人もいたかもしれない。しかし、ヨセフは自分のミッションを知っていたから、飢饉への準備に果敢に取り掛かり、着々と実行した。 恥意識との戦いに勝利すること、神様からのミッションを遂行すること。