マルコ11
マルコ11、民数記9−11
祈る時の障害の一つは、私自身の「疑う心」である。人を恐れ、できっこないと自信をなくし、どなたに祈っているのかを忘れて独り言であるかのような不信仰に陥る。
しかし、はっきりイエス様は言われた。神の御心にかなっているなら、祈り求めるものは、神の方法とタイミングで必ず聞かれるのである。だから、「すでに得た」と信じることができるのである。
敵は私たちが信仰に立たないようにと必死である。しかし、キリストはすでに十字架の上で一切の敵に勝利を取られている。私がキリストにまったく信頼するなら、そのお方の力と守りにより平安をいただいて歩めるのである。
イスラエルの民が荒野で不信仰を繰り返した態度にならわないようにしよう。そうではなく、彼らが神の雲の柱、火の柱の動きに従ってとどまったり旅だったりした態度(民数記9:17ー23)にならいたい。しかも、どんなに移動が多くても、逆にどんなに長くとどまらなければならなくても、「主の命により、主への務めを守った」ように淡々と、召しに従って歩みたい。