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詩篇133

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。 兄弟たちが一つになって ともに生きることは。 」詩篇133:1 このブログを書き始めた一番の理由は、教会で同じみことばを読み、互いを覚えて祈るためです。デボーション誌を定期講読するのが難しくても、共にできることをと願いました。 霊の兄弟姉妹と同じ祈り心で日々生きることは、「なんという幸せ なんという楽しさ(1節)」でしょう。 それは 「頭に注がれた貴い油のようだ」(2節)、「ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ」(3節)と形容される通り、この世の価値観を越え、主の恵みが降り注ぐようなものです。 「とこしえのいのちの祝福」(3節)を頂いた者が共に祈る時、神の国がこの地に現されているのです。 祈り:神様、あなたが植えてくださった教会を感謝します。それぞれの集う教会に、互いの祈りがあふれ、主の栄光を見上げ、楽しみ生きることができますように。日本中、世界中の教会に、今日も同じ聖霊の臨在があふれますように。アーメン

詩篇132

「そこにわたしはダビデのために 一つの角を生えさせる。 わたしに油注がれた者のために ともしびを整える。」詩篇132:17 「油注がれた者」として、ダビデの家系からイエス・キリストが誕生しました。 ダビデの時代からずっと後のことです。人の目にははるか忘れられたような年月でした。しかし、主は約束を忘れることはありませんでした。 祈ってきたのにきかれず、主が忘れておられるのではと思うことがありますか。主の計画は私たちよりもはるかに深く、主のスケールは私たちよりもはるかに大きいことを心に留めたいと思います。 祈り:神様、あなたのご計画は私の理解をはるか越えておられます。「なぜ、こんな時にこんなことが...」と思う時、あなたの計画に狂いはないという信仰を与えてください。ビザ発給を待つ宣教師たちに忍耐を与え、最善の時に最善のことがなされますように。アーメン

詩篇131

「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。 及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」詩篇131:1 好奇心や知りたいという心は、学びや探求のためにはよいものです。 しかし、誤った用い方には要注意です。 他人の業務に何でも首をつっこむと疎まれます。 私生活でも、うわさや他人のプライバシーや秘密は、無理に知ろうとしない方がよいのです。「自分の分をわきまえる」とはよく言ったものです。 ダビデ王でさえ、「及びもつかない大きなことや奇しいことに足を踏み入れません」と言っています。 ローマ書では「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません(ローマ12:16)」と進められています。 思い上がらず、謙遜に仕える者となれますように。 祈り:神様、私に謙遜な心を与えてください。思い上がらず、高ぶらず、主の愛をもって歩めますように。危険から守ってください。教会でも、親切な真心をもって互いに仕えあうことができますように。アーメン

詩篇130

「私のたましいは 夜回りが夜明けを まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって 主を待ちます。」詩篇130:7 この箇所を読むと、夜勤についている教会メンバーの顔が浮かびます。職種はさまざまでプロだとはいえ、大変な仕事です。事故やハプニングには、昼間よりも少ない人数で、的確な対応が求められます。 旧約時代の神殿にも夜勤の祭司たちがいました。主の宮を交代で守っていました。 夜明けには、主に守りを感謝したことでしょう。 実際の夜勤があってもなくても、たましいが夜明けを待つような思いで主を待ち望んでいるでしょうか。考えてみれば、夜眠りにつくこと、朝起きることも、主の守りがあってこそです。 祈り:神様、何気ない日常生活の中に、あなたの守りと恵みがあふれていることを覚えます。主ご自身を、夜明けを待つ以上に求める思いを与えてください。 学校や職場に出かけるのが辛くてたまらない___さん、___さんに、行く日も休む日も、あなたの励ましと希望がありますように。アーメン

詩篇129

「『彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。』 さあ イスラエルは言え。 『彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。 しかし 彼らは私に勝てなかった。』」詩篇129:1~2 敵は勝利しませんでした。神が守ってくださったからでした。 多様化社会と言われて久しくなります。人々の好みだけでなく、どこからが悪いことなのか、どこまで許容されるのかも揺らいでいます。 それでも、神の愛に反すること、聖書と矛盾することは私たちを幸せにはしません。 他者に対してはどうでしょうか。みことばの字面だけを投げつけて裁くのでは、パリサイ人と同じなのだと自戒します。 より深い神のみ思いへの理解と自分の生活での実践、「みことばを生きる」者となれるようにと願います。 その上で、敵に対しては大胆にイエスの御名で勝利を宣言しましょう。 祈り:神様、さまざまな価値観の中で、あなたの思いを日々知ることができますように。 人々を外見や先入観で判断せず、キリストがされたようにその心を見ることができますように。私たちも、かつてはぼろぼろの状態で主の元に来たことを思い出します。も不完全な者だと自覚します。改めてあなたのあわれみと恵みに感謝します。アーメン

詩篇128

「あなたの妻は 家の奥で たわわに実るぶどうの木のようだ。 あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき まるでオリーブの若木のようだ。」詩篇128:3 何年か前に、オリーブの小さい苗を買いました。鉢で育てていると少しずつ大きくなり、花を咲かせるようになりました。 1本では実がならないというので、今年再びもう1つの小さな苗を買ってきて並べて置きました。先日からの雨で、小さかった苗が雨のたびにみるみる枝を伸ばしました。 今日の箇所で、主の祝福のひとつに子供たちが食卓を囲む様子が「まるでオリーブの若木のようだ」と描かれています。 にぎやかに食卓を囲み、食べ盛りの子はおかわりをし、小さい子はこぼしたりむずかったりする。家の人は必死かもしれませんが、それもまた、ふり返ると幸せな祝福の時だとわかります。 教会にも子どもが来ます。子どものミニストリーには体力・気力が必要です。退屈だと聞いてくれません。また子どもは、時には走り回ったり、大声を出したりするかもしれません。 しかし、そうした1コマ1コマが、教会にとっては幸せな祝福の時です。子どもたちのために暖かい目で見守り、時には優しく諭し、祈りをもって共に育てていきましょう。彼らこそ、教会の将来の希望です。年月がたち、大人になった彼らがリードする礼拝に参加できるなら、どんなに素晴らしいでしょう! 祈り:神様、教会に与えられている幼子、子どもたちを祝福します。そして彼らのために祈ります。主にあって育ち、聖書の価値観を備え、主を愛する生涯を送ることができますように。彼らを愛し、彼らのよい相談相手、祈り手となれるよう、私たちにキリストの愛とまなざしを与えてください。アーメン

詩篇127

「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。 主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。」詩篇127:1 神様抜きでの業績は、頼りなく根拠のないものだと詩篇の作者は警告します。 続く2節は「あなたがたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。 実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる」と言います。 どんなにあくせく働いても、忙しくしていても、神様抜きではむなしく、何のために働いているのか目的を見失いかねません。 眠る間も惜しんで働いても、なお多くの悩みや思い煩いがやってきます。 そのことを、1節では「主でなければ むなしい」と表現します。 しかし、2節後半には「実に主は 愛する者に眠りを与えてくださる」あるいは「眠っている間に、このように備えてくださる」とあります。 怠けるのではありません。最善を尽くしますが、神がそれに増して守ってくださることへの信頼が、「ゆだねる」という信仰につながります。 「こうでなければ」と自分の思いで握りしめていることはありませんか。ベストを尽くしたら、握りしめず、神の手にゆだねませんか。 祈り:神様、あなたの備えと守りに信頼することができるよう、助けてください。 義務や重荷をキリストの背に乗せ、一つ一つあなたに相談しながら、キリストと共にしていくことができますように。アーメン

詩篇126

「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。」詩篇126:5 「ネゲブの流れのように 私たちを元どおりにしてください。」(4節) ネゲブ砂漠はイスラエル南部の砂漠です。普段は荒涼としていますが、雨が降ると地下の水が一気に地表を流れ、草が芽吹きます。 チャールズ・スポルジョンは涙を「流れる祈り」と呼びました。悲しみの祈り、喜びの祈り、どちらも涙が伴います。 祈りは砂漠の地下水のように、表面からは見えなくても主には覚えられています。 やがて地表にあふれ流れるように、神の時に祈りの答えを見ます。 不信仰な言葉が出そうになったら、それを祈りに変えることができますように。 祈り:神様、私の思いや感情を、あなたの御前に注ぎ出します。自分のことだけでなく、信仰の兄弟姉妹のためにもとりなし祈らせてください。 涙と共に心を注ぎ出しで祈り、川のように祈りの答えがあふれるのを見たいです。私の生活に、教会の中に、祈りが満ちますように。アーメン

詩篇125

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。 揺るぐことなく とこしえにながらえる。」詩篇125:1 人生をかけて福音を伝えたのは、初代教会や歴史のリーダーに限りません。 この日本でも、何十年にもわたり福音宣教のために仕え、80代、90代になっても今なおキリストへの愛に燃えている伝道者がおられます。 今週は、90歳でなお現役として、国内外で宣教する伝道者のあかしを聞く機会がありました。キリストのために気が変になったと言われてもよい、パウロのように励み続けたいという言葉が印象的でした。 もしパウロのようであったら、どんな苦労や批判があったとしても気にもかけないことでしょう。 なぜなら、主に信頼するなら「シオンの山のよう」に揺るぐことがないからです。 そして「エルサレムを山々が取り囲んでいるように」(関西にいると京都や奈良のような盆地をイメージします)、主が囲んで守ってくださるのです(2節)。 主の御腕に囲まれて歩む日々は、なんと安全なことでしょうか。暴風が来ても大丈夫です。 祈り:神様、あなたに信頼し、揺るぐことなく歩みたいです。あなたの守りを受け取ります。批判や苦い言葉が私の心を蝕むことがないように守ってください。明日の礼拝にも期待します。アーメン

詩篇124

「もしも 主が私たちの味方でなかったなら   人々が敵対してきたとき」詩篇124:2 「もしも 主が私たちの味方でなかったなら」どうなるでしょう。 想像するだけで、勝ち目がないとわかります。 敵によって丸呑みにされ、大水に押し流され、餌食となる、とダビデは言います(3~5節)。肉体的に敗北するだけでなく、たましいも敵の餌食になってしまいます。 しかし、キリストを信じるなら、主は私たちの味方です。 「ほむべきかな 主。 主は私たちを 彼らの歯の餌食にされなかった。  鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。   罠は破られ 私たちは助け出された。   私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある。(6~8節)」 せっかく主が共におられるのに、独りで戦おうとしていませんか。 仕掛けられた罠を主が破ってくださったのに、まだ罠の中にとどまろうとしていませんか。 もしまだとらわれている心があるなら、イエス様が手を取り、脱出するのを助けてくださると信じましょう。 祈り:神様、あなたが共にいてくださること、信じる者の味方であることを感謝します。 日々の歩みで、苦境に立たされること、心乱される出来事に直面することがあります。 落ち着いてあなたの助けを呼び求めることができるよう、私のたましいを今日も守ってください。主にある判断力と反応を与えてください。 「この世と調子を会わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)  アーメン

詩篇123

「まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ   仕える女の目が女主人の手に向けられるように   私たちの目は私たちの神 主に向けられています。   主が私たちをあわれんでくださるまで。」詩篇123:3 「あわれんでください」と言うまでもなく、神様はあわれみ深い方です。 それでも、私たちは「主よあわれんでください」と叫びます。 それは、しもべが主人を見つめ続けるように、私たちが主に信頼し続け、主のなさることに期待するためでもあります。 「あわれんでください 主よ あわれんでください。 私たちは蔑みでいっぱいです。」(3節) 状況が苦しければ苦しいほど、頼れるものは限られてきます。 エルサレムに向かいながら、巡礼者たちはどのような気持ちでこの歌を歌ったでしょうか。 日常に戻れば困難や苦労が多くあります。 それでも、今は雑事を忘れて一番大切なこと~神への礼拝~に心を定める決意を確認したことでしょう。 それはちょうど、マルタとマリアの姉妹のうち、マリアがイエス様の足元に座って聞き入った姿に重なります。 祈り:神様、私たちをあわれんでください。さまざまな心づかいのある日常で、 まずあなたの足元に座ってマリアのように声を聞きたいです。巡礼者のように心を定めて礼拝したいです。導いてください。アーメン

詩篇122

「エルサレムの平和のために祈れ。『あなたを愛する人々が安らかであるように。』」詩篇122:6 ダビデによる「都上りの歌」です。 王として、都の安寧はもちろん重要でした。 しかし、それにもまして人々が「さあ 主の家に行こう」(1節)と言った時、彼は喜びました。 ただ軍事的、政治的に平和なだけでなく、 「あなた(主)を愛する人々が安らかである」ため(6節) 「私の兄弟 友のうちに平和がある」ため(8節) 「私たちの神 主の家のために」という動機(9節) から平和を祈り求めました。 主の家である教会に、平和と喜びのうちに集うことができるのは何よりの幸せです。 自由に、安全に礼拝できる恵みをかみしめつつ、共に集まり賛美をささげましょう。 祈り:神様、教会に集うことは単なる義務ではなく、大きな恵みだと覚えます。 世界中の迫害されているクリスチャンや教会を、今日も励ましてください。 あなたを礼拝する自由と平和が、その地に一日も早く訪れますように。 とりなしの祈りを続けます。アーメン

詩篇121

「私は山に向かって目を上げる。   私の助けは どこから来るのか。   私の助けは主から来る。   天地を造られたお方から。」詩篇121:1~2 エルサレムの丘に向かって歩きながら、巡礼者はこの歌をどのような思いで歌ったでしょうか。 丘を見上げると空も天も目に入ります。旅がここまで守られたという感謝と、万物を創造された主を見上げる思い。そして、これから向かう神殿で礼拝できる期待感に満たされたことでしょう。 すべてのわざわいから守られるのは、「たましい」の守り(7節)にも重点が置かれています。心と霊が、混乱する世の中で今日も守られますように。 祈り:神様、あなたを見上げます。今日も私の心と霊をお守りください。さまざまなハプニングの中で、混乱せず祈ることができるよう、お守りください。アーメン

詩篇120

「主よ 私のたましいを 偽りの唇 欺きの舌から 救い出してください。」詩篇120:2 120篇から134篇は「都上りの歌」と呼ばれ、エルサレム巡礼の人々が神殿に上っていく時に歌ったと言われます。 「偽りの唇」「欺きの舌」によって囲まれた作者は、八方塞がり、裏切りと敵が周りにいる苦境にあって祈ります。 心を注いだ祈りの結論は、最初の節 「苦しみのうちに私が主を呼び求めると 主は私に答えてくださった」 でした。 結論というより信仰を働かせ、それゆえ祈ることを選びとったとも言えるでしょう。 目に見える周囲の状況をはるかに越えてすぐれた方、主が私たちとともにおられます。新しい週の出勤や通学が憂鬱でも、主はその状況の中で私たちと共におられ、救ってくださる方です。 祈り:神様、今週の一人一人の働きをお守りください。失敗や人間関係の苦境にある人に、主が共にいてくださるから大丈夫という信仰を与えてください。どこにいても、一瞬ごとに主を呼び求め、見上げることができるように導いてください。アーメン

詩篇119

「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。 それにより 私はあなたのおきてを学びました。」詩篇119:71 聖書の中で一番長い章です。読み通すのが大変だったかもしれません。 元々の言葉だと、各連(各段落)の初めの文字がアルファベット順になっているそうです。かるたみたいですね。 繰り返し、繰り返し、神様の教え(さとし、戒め)に従う幸いを歌います。 「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です(105節)。」 みことばは、人生の歩みを照らす光だと表現されます。 苦しみでさえも、主のおきてを学ぶことができたので幸せだった、と詩人は歌います。 試練や困難を通して、私たちも信仰が強くされ、きよめられ、主にある忍耐と品性が備わっていきます。その時は苦しいですが、後でふりかえると、きっと「幸いでした」と言えるのですね。 祈り: 「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(ヘブル12:11)」 神様、このことばを信じます。困難を通っている___さん、___さんを、あなたが励ましてください。信仰を強め、あなたにより近く歩み、続く人たちを慰め励ます器として用いられますように。主が守り支えてください。アーメン

詩篇118

「主に身を避けることは 人に信頼するよりも良い。」詩篇118:8 読んでいると、聖書の別の場所でも見たことがある表現が出てきます。 22節の「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった」は新約聖書の中で5回引用されています。 イエス・キリストこそが私たちの要の石となってくださいました。人に見捨てられた方は、神の逆転のみわざで救いを成し遂げてくださいました。 人には一面しか見えませんが、神にはすべてが見えています。同時にこの方は全能です。悪いこともよいことに変えることができます。 ですから、神のもとに身を避けることは、人に頼るよりも確かなのです。 敵の包囲を主の御名によって断ち切る(10~12節)と詩人は述べました。 主の名前には力があります。 私たちの心に働く否定的な思い、恐れ、心配、誘惑なども、主の御名を宣言し、断ち切りますと祈りましょう。 祈り:神様、あなたが何者よりも頼れるお方であることを感謝します。私の心にある____の思いを、主の御名によって断ち切ります。困難を覚える___さんとの人間関係も、主が介入してくださることを信じます。アーメン

詩篇117

「すべての国々よ 主をほめたたえよ。 すべての国民よ 主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。 主のまことはとこしえまで。 ハレルヤ。」詩篇117:1~2 短い詩です。上に引用したものが全文です。 詩篇のエッセンスをぎゅっとつめこんだような内容です。 すべての人に「主をほめたたえよ」と賛美に招きます。 その理由は、主の「恵み」と「まこと」が大きく永遠に続くからです。 終わりも「ハレルヤ」すなわち「主をほめたたえよう」と再度賛美に招きます。 主を見上げて生きるために、私たちは造られました。賛美することは、私たちの存在意義の一つだと言えます。 歌に合わせることに限らず、祈りの中で、会話の中で、聖書を読む中で、書き物をする中で、アート製作の中で、散歩の中で、勉強の中で、仕事の中で・・・。 さまざまな場面で、さまざまな方法で、主を賛美することができます。 祈り:神様、あなたの恵みとまことに感謝します。あなたを賛美し生きていきたいです。何をする時にも、主に向かってするように、祈りながらできますように。与えられた環境を楽しみ用いて、さまざまな形で賛美へと導いてください。アーメン

詩篇116

「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。」詩篇116:15 これだけ読むと、少し過激に思える表現です。しかし、詩人は死ぬか生きるかの状況に置かれていました。 パンデミックの初期、多くの人が命を失いました。 インドのデリーで長年小学校を経営し、聖書に基づく教育にささげてきたクリスチャンも感染し、命を落としました。 召される30分前、重症者病室で隣のベッドにいた青年に、キリストにある永遠のいのちを書いたトラクトを、最後の力で渡したそうです。 葬儀のテーマ聖句が、15節の「主の主の聖徒たちの死は 主の目に尊い」でした。 多くの教え子や先生たちが集まり、礼拝そのものの式でした。 6節の「主は浅はかな者をも守られる。 私がおとしめられたとき 私を救ってくださった」も慰めです。失敗ばかりの者も主は愛し、慰めてくださいます。ほっとしますね。 祈り:神様、今日も生かされていることに感謝します。病床にいる____さん、病名の告知を受けた____さんに、あなたご自身の平安と永遠のいのちへの希望が、言葉にできないほど豊かにありますように。覚えて祈ります。アーメン

詩篇115

「主を恐れる者たちよ 主に信頼せよ。  主こそ助け また盾。」詩篇115:11 「イスラエルよ(9節)」「アロンの家よ(10節)」と呼び掛け、後半は11節と同じフレーズが繰り返されています。 「主を恐れるたちよ」、主に信頼せよ、主が助けであり盾なのだよ、と私たちにもその声は呼び掛けます。 私たちが主と呼ぶ聖書の神様は、人の手で作った、人が助け出さないといけない神々ではありません。 見えなくても確かに存在し、私たちを助け守ってくださる方です。 どこまで信頼するのか。それが私たちの信仰のあり方そのものにかかっています。 祈り: 神様、あなたを頼って生きていきたいです。それがこの人生でも、そして永遠にも最も確かな道です。信仰を与えてください。 今、信仰告白をしようかどうしようか迷っている(           )さんに、聖霊が優しく、同時に確かに働いてください。アーメン

詩篇114

「神は 岩を水の潤う沢に変えられた。 硬い岩を 水のあふれる泉に。」詩篇114:8 出エジプトは奇跡の連続でした。紅海の水が分かれたり、ヨルダン川がせき止められたり、岩から水が出たりと、大自然を主が支配しておられることを人々は体験しました。 今も奇跡は起こります。何よりも、自分自身の岩のように頑固な心が、キリストによって変えられたことが奇跡だと思いませんか。 「硬い岩を 水のあふれる泉に」とあるように、心にキリストをお迎えするとき、私たちは変えられます。 キリストの与える水は 「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が涌き出(ヨハネ4:14)」るのです。 頂いている恵み、泉のようにつきないキリストの水を、今日流し出すことができますように。 祈り:神様、私のかたくなな心を変えてくださり感謝します。尽きないあなたの恵みを流し出し、周りを潤していきたいです。大胆に気前よく実践できるよう、機会を与えてください。アーメン

詩篇113

「だれが 私たちの神 主のようであろうか。 主は高い御位に座し 身を低くして 天と地をご覧になる。」詩篇113:5-6 えこひいきしない神様に感謝します。 「主は弱い者をちりから起こし 貧しい人をあくたから引き上げ 彼らを 高貴な人々とともに 御民の高貴な人々とともに 座に着かせられる(7~8節)」ともあります。 大阪の下町で生まれ、転居し、いじめを経験し、質素な生活で肩身が狭かった私には、これらのことばが響きます。 神はふんぞり返っている方ではなく、私たちを愛し、自ら地上に降りて救ってくださった方です。 この主と出会った幸いに感謝します。 祈り:神様、あなたは全てのものより高く、素晴らしい方です。同時に、身を低くして私たちを知ろうとしてくださる方です。私の心を探り、私の思いを知ってください。今日も導いてください。アーメン

詩篇112

「その人は悪い知らせを恐れず 主に信頼して 心は揺るがない。」詩篇112:7 「よいニュースと悪いニュースがあります」と言われた時、 喜びますか?心配しますか? 一般に、耳にするのは肯定的なニュースより否定的なニュースが多いです。 しかし、主に信頼する人は「たとえ・・・でも」大丈夫です。 父が入院していた時、電話が鳴ると緊急の知らせかと、いつも緊張していました。 実際に父が召されてかけつけた時には、確かに急ぎました。 それでも天国の希望があること、父が主の元に行った確信が与えられ、寂しさとともに深い平安が与えられました。 主にすがる者は幸いです。そして主は、ご自身に頼る人を守ってくださいます。 祈り:神様、あなたの守りを感謝します。悪いニュースを聞いた時でも、そこに主のあわれみと希望があることを体験させてください。人をさばかず、主の前に今日も素直に歩ませてください。アーメン

詩篇111

「知恵の初め それは主を恐れること。 これを行う人はみな賢明さを得る。 主の誉れは永遠に立つ。」詩篇111:10 今朝、どんな気持ちで目を覚ましましたか。 すがすがしい朝、憂鬱な朝、わくわくする朝、疲れがとれない朝...。 私たちの思いは変わりやすく、移ろいがちで当てになりません。 しかし、どんな朝も変わらない方、それは主である聖書の神です。 その方に頼り求めることが「知恵の初め」であり「賢明さを得る」ことです。 「心を尽くして主に拠り頼め。  自分の悟りに頼るな。  あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。  主があなたの進む道をまっすぐにされる。」  箴言3:5~6 祈り:神様、あなたがいつも変わることのない方であることに感謝します。 いつもあなたを恐れ信頼し、上からの知恵をいただくことができますように。アーメン

詩篇110

「主は 私の主に言われた。 『あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。』」詩篇110:1 イエス様はルカ20:42でこの詩篇に触れられました。 イエス様が親しんでおられた聖書と同じものを、今の私たちも読んでいるのだと思うとわくわくします。 ぺテロも使徒2:34-35で、この節を引用しています。 これはメシア預言の詩篇であると同時に、聖霊降臨とも関わりがあります。聖霊がくだられることが、究極の勝利の出来事であるとわかります。 政治的・人間的な勝利だけにとどまらず、霊的な戦いとその勝利も約束されているとは、なんと幸いなことでしょうか。 祈り:神様、人として来られたイエス様も、そして初代教会のリーダーたちも同じ詩篇を読んでいたことに、神のみことばが不変であると励まされます。 そして、目に見えることだけでなく、霊の世界でも勝利されたイエス・キリストを主としてあがめることができる幸いに感謝します。アーメン

詩篇109

「彼らは呪います。 しかし あなたは祝福してくださいます。 彼らは立ち上がり 恥を見ます。 しかし あなたのしもべは喜びます。」詩篇109:28 聖書は逆接的な事柄で満ちています。 貧しい者が富んでおり、 弱いのに強くされ、 涙が喜びに変わり、 呪いが祝福に変えられる... ある人は「逆転の神」と言いました。 十字架の死が、復活の勝利へつながったことが、それを端的に表しています。 同じように、私たちの身の回りで一見マイナスに見える出来事が、 神の恵みを体験するきっかけになっていくことがあります。 今日の悩みがどのように祝福に変えられていくか、 定点観測のように観察したいと思います。 ご一緒に、いかがですか。 祈り:神様、あなたのご計画ははかり知れず、あなたの思いは人の理解を越えています。素晴らしいあなたの元に憩い、今_______の事柄をゆだねます。あなたに抱かれて、このことの顛末を安心して受け取れますように。アーメン

詩篇108

「神にあって私たちは力ある働きをします。 神こそが 私たちの敵を踏みつけてくださいます。」詩篇108:13 再びダビデの詩篇が始まります。 13節は、ただ自分たちが敵に勝てばよい、と喜んでいるわけではありません。 むしろ、人だけでは何の働きもできないこと、自分自身には力がないことをダビデはよく知っていました。 12節に「どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいのです」という告白があります。 戦術にたけた彼でも、神抜きの救いはむなしいと言っています。 私たちには、あからさまな敵はいないかもしれません。しかし、心にしのびよる悪い考えやささやき、自分の古い肉の習慣など、目に見えない敵は多くあります。 自分の努力や自制だけでは克服できないそうした敵には、聖霊による助けがどうしても必要です。 祈り:神様、私には弱さがあることを認めます。聖霊の助けなしには勝利はありません。今日も内住の聖霊が助け導いてください。信仰の友一人一人の名を挙げ、顔を思い浮かべながら、同じ主にある守りと主の働きが今日もありますようにと祈ります。アーメン

詩篇107

「知恵のある者はだれか。 これらのことに心を留めよ。 主の数々の恵みを見極めよ。」詩篇107:43 「この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は・・・救われた(出された)」という表現が6、13、19、28節に出てきます。 どんな苦しみのときにも、主の御手はそこにあります。 日曜日のミニバザーは楽しい時でした。 そこに来られた一人ひとりに人生があり、喜びと苦難があります。 表面的には見えないことも、主は知っておられます。 そして主は救いの御手を伸ばしておられ、それを受け取ることを願っておられます。 来会された方々を覚えてお祈りします。 祈り:神様、さまざまな方と出会う機会を与えてくださり感謝します。 私自身の、またその方々の人生の歩みに、主がいつも目を注いでおられることを覚えます。来会された方がキリストと出会い、その愛を受け取ることができますように。アーメン

詩篇106

「私たちの神 主よ 私たちをお救いください。 国々から私たちを集めてください。  あなたの聖なる御名に感謝し あなたの誉れを勝ち誇るために。」詩篇106:47 歴史を振り返り、自分たちの犯した罪深い行いを振り返り、 「それでも 彼らの叫びを聞いたとき  主は彼らの苦しみに目を留められた(44節)」 と詩人は歌います。 続いて、王国が滅び散らされた民の回復を祈ります。 直接的にはバビロン捕囚で散らされたことからの回復ですが、 今難民となって避難している人たちには文字通りの祈りです。 同時に、私たちの祈りでもあります。 一週間、それぞれの場所に出ていき、 主の御名に感謝し、主の誉れをあかしするためにまた集まる。 毎週毎週、どの一週間も主にあって特別な歩みです。 主が与えてくださった歩みを分かち合い、互いに建て上げ合う群れが教会です。 祈り:神様、毎日をあなたと共に歩みたいです。それぞれの場所で一週間の歩みを始める信仰の家族の一人一人を、今週も守り祝福してください。アーメン

詩篇105

「民が願い求めると 主はうずらをもたらし また 天からのパンで彼らを満ち足らせた。」詩篇105:40 米村英二牧師は「愛とゆるし」という本で、主の祈りの「日ごとの糧をお与えください」についてこう書いておられます。 ・われわれ人間が自分の生存を神に負っている。 ・(この祈りは)私たちがほんとうの糧を求めているかどうかを問うている。 ・私たちが祈るべきなのは今日の糧であって明日の糧ではない。 当たり前のように冷蔵庫にある食物も保存食も、元は神から与えられているものです。今日物流が滞ったら、災害があったら、その食物を手に入れることはできません。 主は「飢饉を地の上に招きパンの蓄えをことごとくなくされ(16節)」ることのできる方です。 そうせずに、私たちへのあわれみによって今日も食物が与えられていることを再確認します。 自分の力で生きているのではなく、神に生かされていることに感謝します。 祈り:神様、今日もあわれみを注いでくださり感謝します。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。受け取り、深く感謝して味わいいただくことができますように。思うように食べることのできない、療養中の___さん、____さんに力を与えてください。アーメン

詩篇104

「私の心の思いが みこころにかないますように。 私は 主を喜びます。」詩篇104:34 自分の心が何を思っているか、どこまで知っているでしょうか。 自分でも心がわからないことがあります。 人が意識しているのは10パーセント、残り90パーセントは無意識の領域だそうです。 口から出る言葉は、出任せのようでも無意識の心の思いを反映しているのかもしれません。 一人で静まり、主に心探られ気づきをを与えられること。 信仰の友とゆったり交流し話す中で、聞きながら自分の心に気づかされること。 こうした心のケアは、健康な霊性のためにとても大切です。 「私はいのちの限り 主に歌い 生きるかぎり 私の神をほめ歌います(33節)」と言えるよう、月毎に心のケアの時間を予定に入れてはどうでしょうか。 祈り:神様、私に心を与えてくださり、主を思い、みことばを思いめぐらし、歩みをふりかえるようにしてくださって感謝します。肩こりをほぐすように、私の心をほぐしてください。柔らかい、砕かれた純粋な心であなたをほめ歌うことができますように。アーメン