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Ⅰテモテ4

Ⅰテモテ4、イザヤ9−10 「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」Ⅰテモテ4:12 20代、30代の頃は、教会や委員会、ミニストリーの働きで最年少という場面が多かった。それでいつもこのことばを言い聞かせていた。 今日は、自分より若い人がいる場面の方が多い。そして 逆に、若い人を軽く見ないように自戒している。若くても、自分が一生懸命であったように、神に祈りながらベストを尽くしている人を尊敬し丁寧に接したいと思うのである。

Ⅰテモテ3

Ⅰテモテ3、イザヤ7−8 「この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」Ⅰテモテ3:11 監督、執事として仕える人の条件が示されている。執事のリーダーシップは男女の別がないが、品位があること、人を中傷しないこと、自制できること、忠実であることが求められている。 品位とは尊敬に値することである。同時に、悪いことを口にしないか、信頼できる人であるかがその人の教会の中でのリーダーシップを決めることを述べているのである。 口を制するのは聖霊の助けがなければ難しい。逆に、聖霊により頼むときに、私たちの口が制御され、整えられ、聖霊の語らせてくださることを話すようにと導かれていく。 今日も聖霊の願われる言動ができますように。自分が出過ぎて言い過ぎ、恥意識や落胆で時間を費やすことがありませんように。主よ、どうぞ助けてください。

Ⅰテモテ2

Ⅰテモテ2、イザヤ5−6 「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」Ⅰテモテ2:12 女性教職を認めるか、特に女性が牧師となれるかについて、賛成、反対の議論の根拠となるところである。個人的には、女性もリーダーシップの召しを神から与えられている人はおり、教師、牧師として仕えることに男女差はないと信じている。この箇所が、8節の「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」に続いて対比されて書かれているので、当時の教会の問題点を指摘した文脈だと考えられるからである。 それでも、女性が男性を無理に超えたり、支配したりしようとするのではなく、性別よりもそれぞれの召しを恵みと捉え、謙遜の心を持って仕えていくことを主は望まれているのだと思う。 その際に、弱さとなる属性や性質について、主の取り扱いと霊的な成長を求めていくことが、主に喜ばれることであると確信する。

Ⅰテモテ1

Ⅰテモテ1、イザヤ3−4 「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」Ⅰテモテ1:18 テモテにエペソの教会を任せるために書いた手紙は、現在の牧会や教会のあり方にも多くを教えてくれる。 パウロは自分が労したことより、教会の将来のことを委ねる、といっている。不完全な部分もあっただろうし、パウロならもっと上手くやれると思う部分もあっただろう。ヒメナイとアレクサンドロのように、問題を起こす人もいたので気がかりでもあった。 しかしそれでも、「委ねる」という働きをより大切にした。何もしないのではなく、委ねること、任せることにフォーカスしたのだ。私も、自分のものと握りしめることなく、気前よく献金を捧げるのと同じように捧げ働き、神にその働きもお返しできるようになりたい。

詩篇116

詩篇115−116、イザヤ1−2 「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。」詩篇116:15 コロナウイルスによって、知人のクリスチャンが何人も主の元に返った。中でも、インドでミッションスクールを創設し、祈りを持って教育し続けてきたウィリアムズ氏の召天は衝撃的だった。 いつも胸ポケットに自分のあかしのトラクトを入れていた。 ICUに運ばれる直前の祈りが録音されていた。入院中も隣の人にキリストのことを分かち合い、次の瞬間召されていたという。 奥様のニーナさんも素晴らしい信仰者、教育者である。夫の葬儀では迷わず詩篇116:15を選び、オンライン配信をし、生徒やヒンドゥー教の人たちも聖書のメッセージを聞くことができるようにした。 主の聖徒たちの生涯、そしてその終わりは、神の目には尊いのである。そして地上生涯の後は主のみもとで、主がねぎらい抱いてくださるのだ。

詩篇115

詩篇115−116、雅歌6−8 「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく  ただあなたの御名に 栄光を帰してください。  あなたの恵みとまことのゆえに。」詩篇115:1 英語では Not to us, Lord, not to us (NIV)。「私たちに対してでなく」ということだが、これが難しいのが私たちである。 主がさせてくださったのに、私の功績、私の優越性、と示したいのである。栄光が、主のお名前にのみ帰されるように。その祈りを持ちたい。もっとも、自分を卑下することなく、そうした能力やスキルを与えてくださった主をほめたたえるという意味で、成し遂げたことを喜び、ほめられたらありがとうと謙虚に受け取れるようになりたい。

Ⅱテサロニケ3

Ⅱテサロニケ3、雅歌4−5 「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」Ⅱテサロニケ3:5  心が何に興味を持ちどこに向いているかは、私たちの考えや行動に直接影響を及ぼす。肯定的でいれば良いではないか、とある人は言う。しかし生まれ持った性質と環境で、つい否定的に考えてしまったり、懐疑的になったりする人もいる。 パウロも、主が心を導いて下さいと祈る。テサロニケの人たちが、神の愛とキリストの忍耐に心を向けることができるように、と。 偏った教え、どうせ再臨がもうくるから何もせず待っていようという考えは、主が喜ばれるものではない。現在を覆っている刹那的な考えも、主から出たものではない。なんといっても、神の愛が注がれていること、キリストが十字架の死に至るまで忍耐してくださったことを思い起こせば、今の苦しみや悩みは慰められ小さいものに見えてくる。 うつになりそうなら、神の愛、キリストの忍耐を覚えることができるように、もっとわかるように助けてくださいと祈ろう。

Ⅱテサロニケ2

Ⅱテサロニケ2、雅歌1−3 「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」Ⅱテサロニケ2:16−17 神ご自身が強めてくださる心は、確信を与えられる。そして、行動にも語ることばにも健康的な自信を持って臨むことができる。 批判や心ない言葉、誤解を受けるとき、心はしなえるが、慰めも神からくる。そして、偏った教えにも落胆したり怒ったりすることなく、優しい心で戒め導くことができるのである。 私自身は、怒りがきたときにその原因を神に教えていただく必要がある。何がトリガー(引き金)であり、何がその背後にあるのか、 心を見張るものとなれるように。様々な教えや論争に振り回されず、平安でしっかり立つことができるように。

Ⅱテサロニケ1

Ⅱテサロニケ1、伝道者の書10−12 「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」Ⅱテサロニケ1:10 主の日に、キリストが「感嘆の的」となられる。実際に顔と顔を合わせて喜びと驚きを表し、感嘆するのである。 ところで、日々キリストを感じ、キリストとともに歩む生活に、同じ感嘆はあるだろうか。キリストが私の今日の人生に関心を持ち、手を取って歩んでくださっていること、ご自身の方向に伴ってくださることもまた、感嘆に値するのではなかろうか。 そのことを覚え感謝し味わいつつ、今日1日を生きていきたい。

Ⅰテサロニケ5

Ⅰテサロニケ5、伝道者の書7−9 「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」Ⅰテサロニケ5:8−9 エペソ6章と重なるところが多いが、パウロは各教会に神の武具を確認した。信仰と愛は胸当てのように私たちの心を守り支えるもの、そして希望はかぶとのように私たちの思考を守り励ますものである。それがあれば、滅びに至ることはなく落胆して絶望することもない。 そして、キリストも私たちが救いを得ることを定めてくださっている。 私自身の心は傷つきやすく、剥き出しでは批判や不測の事態にめっぽう弱い。だから、キリストが心をチョココーティングのように完全に覆ってくださり、信仰と愛をいただいて胸当てをつけること、かぶとをかぶって頭も守ることが日々必要である。そうしなければ、すぐに攻撃に負け、少しの傷でも痛んでしまい、力を失ってしまう。だが、キリストの力を知るとき、そこに頼ればどんな心の痛みや入ってくる刺激の鋭さにも私の心が守られる、と平安をいただくのである。

Ⅰテサロニケ4

1テサロニケ4、伝道者の書4−6 「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」Ⅰテサロニケ4:18 スマホでホームページを見ていて、ごく稀に突然「ウイルスに感染しました」と警告が出ることがある。ほとんどはいたずらや愉快犯であるが、万一感染していても、対策ソフトで対処することができる。 私たちの日常生活もこれに似ている。誘惑やどきっとする出来事がやって来たら、落ち着いて聖書の方法を調べ、それに従って対応することができる。 短い章だが、どのように歩めばよいのかをコンパクトに、そして的確に教えている。 神に喜ばれるのは、神の教えを守って聖なる者となること、わきまえること、兄弟愛にますます豊かに富むこと、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励むこと、品位を保つこと(3−11節)である。 再臨がいつ来るかは、主がご存知のことである。だから、それまではこの地上で淡々と、誠実に働き生きていくことを主は望まれる。

詩篇114

詩篇112ー114、伝道者1−3 「神は 岩を水の潤う沢に変えられた。  硬い岩を 水のあふれる泉に。」詩篇114:8 岩や岩地は、ゴツゴツしていて荒れた様子を思い起こさせる。すさんだ荒地、足をくじいてしまいそうな場所が、主によってみずみずしく、潤い、豊かな場所へと変えられる。 人の心、たましいも同じである。どうしようもない頑固な私の心も、主の霊の働きで水の流れる心と変えられる。自分では水を作ることができないが、神が水を注いでくださるのでそれを流す。水は柔らかいだけではない。水は石や岩を削り、尖ったところや粗野なところを滑らかにし、整えられる。そのように、神は私の心を整えてくださる。時々サタンが嵐を持ってきて、心が吹き荒んでも、また神は水を流して倒木やゴミを取り去り、再び整え始めてくださる。 、

詩篇112

詩篇112−114、箴言30−31 「その人は悪い知らせを恐れず  主に信頼して 心は揺るがない。」詩篇112:7 このような人であったらどれほど良いだろう。HSP(Highly Sensitive Person)として、少しのことでも敏感に反応しがちな者であるが、主の語りかけには敏感で、しかし悪い知らせやハプニングには恐れない者であれたら最高なのだが…。 詩篇に出てきている「正しい人」の特色は、「心が堅固」「敵を平然と見る」という強さと同時に、「貧しい人々に惜しみなく分け与える」者でもある。その結果、敵が苛立ち、歯ぎしりするほどであるという。私たちの敵は目に見えるものだけではなく、目に見えないもの、そして戦いの場は心である。どうしようもない感情が起こってきた時、これは自分の心に何か作用が起こっているか、ではどう治めれば良いか、冷静に見つめるか、気づきをすぐ神に持っていく(祈る)練習をしよう。プラクティス、訓練、練習問題である。基本から応用へ、訓練と鍛錬の法則に従って少しずつ正しい反応ができるよう、霊的な鍛錬をしよう!

Ⅰテサロニケ3

Ⅰテサロニケ3、箴言27−29 「そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」Ⅰテサロニケ3:13 パウロの祈りは、信仰のうちにテサロニケ教会の人たちが堅く信仰に立つため、心が強められることであった。最後まで信仰を捨てず、横道にそれず、信仰を守り抜くことだった。 教会とは、愛の共同体であると同時に戦う共同体でもある。戦うのは、この地上の勢力ではなく、霊的な勢力に対してである。しかしそれは、地上での迫害や誘惑の形をとってやってくる。また、戦場は私たちの心(マインド)である、とジョイス・マイヤーは言っている(『Battlefield of the Mind、邦訳『思考という名の戦場』)。 与えられている武器がみことばであること、そして理屈をこねたり批判しようとするときに、サタンの巧妙な働きに巻き込まれる危険があること、さ迷う心の危険性を彼女は論じている。 まず、心がどこに集中するか。また愛の心で、比較せず、その人の祝福を祈れるか、心を点検したい。

Ⅰテサロニケ2

Ⅰテサロニケ2、箴言25−26 「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」Ⅰテサロニケ2:4 誰がこのような光栄な務めを断るだろうか。他人事ならそのように言える。しかし、実際に自分が委ねられるとなると、その責務の大きさに「とてもできない」と言いたくなる。 実際、「人を喜ばせるのではなく」神を喜ばせることにフォーカスできているだろうか。人の顔色、批判への恐れ、自己弁護、プライド、そして自分への評価と報いを求めてしまう者である。 しかし、神は「私たちの心をお調べになる」のである。どんな動機でしているか。いやいやながらにしているのなら、それは人には勤勉、誠実に映っても神には喜ばれない。訪問も、メールも、もしそれが神の力、喜びから来ていないなら、サタンに煽られて行っているに過ぎない。牧会の働きが、サタンのあおりでなされているなら、なんと恐ろしいことか。 私自身は、一人になり、じっくり時間をかけ、後方で整える働きに召されていると思う。それならば、心を込めて掃除をし、部屋のレイアウトを考え、技術的な部分を整え、1対1の面談と祈りを丁寧に行い、皆が教会に来て平安に神の恵みを味わい、建てあげられるようにしたい。無理に伝道や訪問に行けというのはサタンの誘惑であることもある。それならば、お茶を飲み、じっくり主の御顔を求め、体調を整え、気持ちよく他の人が働けるように自分自身がまず安定することから始めるべきである。