投稿

ルカ1

「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。」ルカ1:3~4 日記をつけたことがありますか? 日々献立や一日の出来事を書き留めていた一主婦が、夫のアリバイを立証して冤罪から救ったというドラマの場面を見たことがあります。 ルカも、初めからこつこつと調べ、書き表していきました。 直接的には福音を聞いたテオフィロがよく理解するためでした。 そして、聖霊が導いて書いたルカの福音書は、主が働かれて「福音書」として世界中の人に2000年にわたってキリストの福音を示しています。 私たちの平凡な日々の歩みの中にも、主があかしとして書き留めてほしいということがちりばめられています。今日、どんなことを発見するでしょうか。 祈り:神様、キリストの愛がよくわかるようにと、福音書を与えてくださり感謝します。私の日々の歩みも、あなたの前に覚えられていることを受け取ります。恵みを忘れず、あかしとできるよう導いてください。アーメン

マルコ16

「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」マルコ16:8 あまりにも予想外のことに驚くと、腰がぬけたり体が固まってしまったりします。 体験をなかったことにしようというバイアスが働くことも、現在知られています。 マルコの福音書が女性たちのとっさの反応をこのように書いたのは、不信仰を責めようとしたのではありません。 かえって、復活が事実であることが裏付けられています。 復活の主にたしかに出会ったからこそ、そのときに人間の自然な反応があったのです。 当時生きていたなら、私もきっと同じようになったでしょう。 その後、補遺にあるようなことが続いたのでしょう。 祈り:神様、復活してくださったことを、人間の弱さゆえの反応からも示してくださり感謝します。 九州をはじめ、台風のひどい被害で頭が真っ白になっている人に、あなたの励ましと回復がありますように。イエス・キリストが、すべての痛みや重荷を背負ってくださることに安息できますように。アーメン

マルコ15

「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。」マルコ15:47 主であり神であるイエス・キリストが十字架にかかるという、極めて重大な世界の歴史の転換点が 「それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた(24節)」 と記述されています。ローマ兵にとっては、日常の雑務のようでした。確かに、多くの人にとっては、日常の出来事、見せしめの一場面でした。 しかし、主を救い主と信じる人にとっては、その重みと価値、重要性がよくわかります。 マグダラのマリアやヨセの母マリアにとってもそうでした。このあとどうなるかわからないけれど、どこに納められるか、よく見ていました。 よく見ていた彼女たちには、その場所が空っぽになり、キリストが確かによみがえられたこともよくわかりました。 祈り:神様、私たちが霊的に重要なことを見過ごさないように助けてください。日常の中で、些細な物事の中にも、あなたの恵みや語りかけに気づく視点を与えてください。台風の通過する地域をお守りください。台風にも勝る、聖霊の風が日本に吹きますように。アーメン

マルコ14

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」マルコ14:9 香油を塗った女性も、イエス様を売ったユダも、失敗したぺテロも、聖書の記事として今日の私たちに届いています。 香油を塗ったのは、エルサレム入城から十字架に至る週の、ほんのひと時です。 逮捕や策略に比べたら、見落としてしまいそうな場面です。 しかし、主はこの女性を喜び、埋葬に備えて「良いことをしてくれた」と言われました。 私たちのしていることは、人には目立たないことかもしれません。しかし、私たちの心を主は見ていてくださいます。 かつて教会(他府県の)に通っていたのに、この世の惑わしや歪んだ常識の影響を受けてしまった人の話を人づてに聞きました。周囲の人は嘆き悲しみ、立ち直れるように祈り続けています。 巧妙な詐欺の被害にもさらされる現代です。 鳩のように素直で、蛇のようにさとい心で、今日も信仰の歩みができますように。 祈り:神様、私たちに気前よくささげる勇気と共に、見分ける知恵を与えてください。一人一人を詐欺や犯罪の被害からお守りください。愛する方々を聖霊に満たし、鋭い霊的洞察力を与えてください。アーメン

マルコ13

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」マルコ13:31 台風の動きが気になります。 2018年に教会の屋根が台風で飛ばされてからは、台風に備えることの大切さをいっそう感じるようになりました。 しかし、どんなに備えても不足の事態はやってきます。災害しかり、事故しかりです。 私たちの想像の及ばないことも数々あります。 イエス様はやがて「天地は消え去ります」と言われました。想像し難いけれど、その日があるということです。 けれども、その日は絶望で終わりません。信じる人には希望があります。 イエス様は「わたしのことばは決して消え去ることがありません」と続けてくださいました。 個人的に、この秋黙示録をゆっくり味わいたいと思います。それは怖い預言ではなく、希望のことばだと言われているからです。主イエスに頼る者には、どんな時にも希望があるということを確認し、確信を持ちたいのです。 聖書には、そうした希望の約束が満ち満ちています。食わず嫌いでなく、通読する恵みをさらに味わいたいと願います。 祈り:神様、台風や地震で不安な心に平安を与えてください。キリストにある希望を握ります。さらにみことばに親しむことができますように。台風の進路にある地域の人々や教会をお守りください。アーメン

マルコ12

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」マルコ12:43 レプタ銅貨2枚を献金箱に入れた貧しいやもめを見て、イエス様は「だれよりも多くを投げ入れた」とおっしゃいました。それは、皆があり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを投げ入れたからでした(44節)。 ここに、見える世界と見えない世t界の価値基準を見ることができます。 私たちが日頃見聞きするのは、見える収入や、それに応じた暮らし向きです。 しかし、教会ではそうではありません。 見える量では量れないことがあります。 たとえば、お金にかかわらず心を尽くして奉仕している人は、主に多くをささげているといえます。 祈り:神様、見えないものに目を向ける者となれますように。私を見えるもので比較するわなから解放してください。全国の教会で仕える伝道者、牧師の妻や家族、奉仕者たちをあなたが愛し、格別に祝福してください。アーメン

マルコ11

「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」マルコ11:25 信仰を持って祈ることと同時に、心を整えること、自分の中に苦い思いがないようにすることもイエス様は教えてくださいました。 祭司長や律法学者たちにも、イエス様は苦い思いを持たれなかったのでした。父のみこころにかなわないことは厳しく戒められましたが、恨んでいるわけではありませんでした。 10日ほど前から歯痛に悩まされています。虫歯ではなく、埋伏した親知らずが奥歯を圧迫しているようです。 薬で炎症がおさまるのを待っていますが、気分がすっきりせず、ついつい考え方も言葉も否定的になってしまいます。 天の父が赦してくださったことの大きさを思い、恨み言を悔い改めつつ過ごす週末です。 祈り:神様、あなたの赦しと愛を感謝します。「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」という主の祈りを覚えます。 あなたが赦してくださったゆえに、他者のことを赦す力と思いを与えてください。 台風に備える教会一つ一つに、守りと平安を与えてください。アーメン

マルコ10

「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。『あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。』」マルコ10:21 マルコの福音書では、イエス様の表情が見えてくるようです。この青年に欠けていることを教える時も、怒って言われたのではありませんでした。「彼を見つめ、いつくしんで」教えてくださったのでした。 ヤコブとヨハネが的外れな願いをするときも、大声で叫ぶバルティマイにも、「わたしに何をしてほしいのですか」(36、51節)と言ってくださいました。 イエス様に何をしてほしいのか、みこころなのか単なる欲望なのか。わからない時には祈って申し上げたらよいのだとわかります。 あわれみに満ちた、イエス様のまなざしの元に近づける恵みに感謝します。 祈り:神様、私の願いは________________です。あなたのみこころにかなうなら、どうぞそのようにしてください。別のことがみこころでしたら、私をあわれみ、それを受け入れることができるように整えてください。アーメン

マルコ9

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」マルコ9:41 キリストに属する弟子に親切にしてくれる人のことを、イエス様はこのように言われました。 この聖句を思うと、温かい気持ちになります。 礼拝に毎週集っている人には親族、友人、近所の人がいます。そして、快く送り出してくれたり、反対しなかったり、洗礼を受けるのを認めてくれたりしています。 その人たちは、「キリストに属する者に一杯の水を飲ませてくれる人」だといえます。 教会に関連して、親切な人、好意者と呼ばれる人たちが何百人と与えられています。 祈り:神様、教会に集う人の背後に、多くのキリストへの好意者がいることを覚えます。___さんの家族、___さんの友人、___さんの隣家の人たちを祝福してください。私たちが会ったことはなくても、あなたはその人たちをよくご存知です。その人たちも、救い主キリストと出会うことができますように。アーメン

マルコ8

「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」マルコ8:33 大変厳しいイエス様のおことばです。少し前には「あなたはキリストです」というぺテロの返答を喜んでおられたのに、それとは雰囲気が違います。 それは、「神のこと」でなく「人のこと」のみ思っていることを戒められたのです。 神から目を離そうとするもの、人の思いだけで物事を運ぼうとするものは、神から出たものではありません。 ぺテロの行為を通してサタンが惑わそうとしたものの、もちろん「ぺテロ=サタン」ではありません。 私たちも同じです。人の心に働きかけ、神に喜ばれないものを広げようとする悪の力を憎むべきであって、ある人を憎むのではないということを覚えます。 もし悪の力に支配されている人がいたら、神が願われる本来の姿に帰ってくることを信じ、祈り続けたいのです。 そして、私たち自身が悪に立ち向かう武具はすでに与えられていることにも感謝します(エペソ6章)。 祈り:神様、悪の力と誘惑は巧妙です。私の力でなく、あなたの力によって立ち向かいます。今がんじがらめになっている人がキリストに出会い、御名の力と権威で解放を体験できますように。私たちはその人を主の愛でとりなし祈り続けたいです。アーメン

マルコ7

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に『エパタ』、すなわち『開け』と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。」マルコ7:34~35 以前にも書いたかもしれません。イスラエルに行った時、ガイドの方がレストランの手配をしておられました。電話をかけて「エパタ」と尋ねられました。 「レストランが空いているか」ということだったと思うのですが、聖書の原文がそのまま使われていて、思わず聖書の世界が浮き出てきたようでした。 でも考えてみれば、私たちが聖書を読む時、その世界は現実です。 みことばは生きて働き、聖書の世界と同じ主が今日も生きておられます。 癒し主であり、人を偏り見ない方が私たちの主、イエス・キリストです。 祈り:神様、感謝します。聖書に出てくるのと同じまなざしで、イエス様が今日も私たちを見ておられることを覚えます。癒しが必要な___さん、___さん、主の声を求めている___さん、____さんに、あなたがお語りくださり、癒しと解放を与えてください。アーメン

マルコ6

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」マルコ6:50 あれほど素晴らしい奇跡をなさったイエス様を幽霊と間違え、おびえてしまうとは。 でもイエス様は、すぐに声をかけてくださいます。 助けに来られたイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。 私たちも自分の常識や快適さ(コンフォートゾーン)と異なる主の導きやみこころを見るとき、おびえてしまいます。 しかし、イエス様は今日も私たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださいます。 主が導かれる所に出ていく一歩、その信仰を主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたのみわざを経験したのに、一歩踏み出すことに恐れを感じます。どうか助けてください。教会の歩み、私自身の歩みが、主にあって一歩一歩導かれるという信仰を強めてください。頑固な思い込みから解放してください。アーメン

マルコ5

「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」マルコ5:34 イエス様は癒しをなさる時、その人の信仰を確認されました。 昨日の礼拝でも、勝利の3つの材料のうち「みことば」と「御名」は大丈夫、私たちに問われるのは「信仰」だと聞きました。 信仰が与えられるように、信仰を強めてください、と今週も祈りつつ歩みましょう。 祈り:神様、私たちひとりひとりの信仰を確認してくださり感謝します。私たちの信仰を強めてください。教会が信仰に立つことができるよう、導いてください。アーメン

マルコ4

「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。』」マルコ4:26~27 マルコの福音書にだけ取り上げられているたとえです。 この後、 「地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです」(28~29説)と続きます。 ほっとします。宣教はもちろんベストを尽くし、祈り熱心に励みます。 しかし同時に、それはノルマではなく人の功績でもありません。 私たちは自分の分を果たしたら、あとは聖霊の働きにゆだねるように召されています。 数ではなく、そこに注がれた祈りと主への愛を、主はよくわかってくださいます。 祈り:神様、教会の規模の大小や数にこだわらなくてよいとわかりました。置かれているところに感謝し、そこで主を愛し仕える者とさせてください。比較のわなから解放してください。私に与えられた分を、聖霊様の助けにより喜んで果たすことができますように。アーメン

マルコ3

「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」マルコ3:35 イエス様はご自身の家族をないがしろにされたわけではありません。が、霊的なつながりが真実であることを述べられました。 今の私たちも、信仰者のつながりは家族のようです。 遠慮がないだけに、ぶつかることがあるかもしれません。それは、互いが家族のように本音で話しているからです。その中から、自分の至らなさを示され、キリストの愛で受け入れ合うことを学び、共に神様を見上げます。 祈り:神様、信仰の家族を感謝します。教会や交わりの中で、さまざまな経験や学びを与えられていることを覚えます。共に祈りつつ、あなたのみこころを選びとることができますように。アーメン