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11月, 2024の投稿を表示しています

Iコリント3

「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません」Iコリント3:10 パウロが据えた土台とは「イエス・キリスト」でした(11節)。 彼の命がけの労苦と福音への熱意は、各地に初代教会が生まれる基となりました。 しかし、彼はそれを自分の栄光とはしませんでした。 「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(6節) 最終的には、すべてが神に帰すのだと確信していました。 「報われないなあ」と思うことがありますか。 育児や介護、家事や職場の下働きなど…。 私もそのように思う時があります。 でも、レディース研修会で語られたように「しばられた生涯」はキリストのご生涯そのものでした。 そのキリストの品性は大きな影響を与えました。 「報われない」というのが、神の視点ではもっとも報われる所に置かれている証拠かもしれないと、改めて教えられたことでした。 祈り:神様、あなたの目に私の歩みはすべて覚えられています。自分の価値観で「報われない」と落胆、卑下することがないよう、心を守ってください。あなたと共に今日も歩みます。アーメン

Iコリント2

「しかし、このことは、  『目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった』 と書いてあるとおりでした。」Iコリント2:9 私たちが見聞きしたことがなく、心に浮かんだこともないものを、神様はすでに備えておられます。 そして、それは御霊により啓示されます。 御霊は今日も働いておられます。 聖書の中だけでなく、私たちの日々生きる中で、御霊の働きをどれくらい意識しているでしょうか。 あるいは御霊の働きを、どれくらい期待しているでしょうか。 信じる者の内に住まわれている御霊を、折にふれ思い起こして一日を過ごしてみませんか。 昔から多くのクリスチャンが御霊と共に歩み、御霊に満たされ、ごく小さなことの中に、一言では言い表せないような恵みや助けを経験しました。 神様は常に、私たちの最善を考えてくださっています。御霊は私たちのカウンセラーです。 祈り:神様、見聞きするものに感情が揺さぶられたり、希望を失いそうになったりする私たちです。そんな私たちを知っていてくださり感謝します。御霊の満たしと助けが必要です。今日ふと立ち止まり、御霊に聴くことができるよう、導いてください。アーメン

Iコリント1

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」Iコリント1:18 神様のみわざは、人間にとっては逆接的に思えます。 最もみじめな十字架が、最も素晴らしい救いをもたらします。 「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした (21節)」とも書かれています。 また、神様は弱い人間を通してこの地上でみこころを行われます。 たとえば、貧困や災害に苦しむ人を助けることも、超自然的な方法だけでなく、人間の働きを通して実現していきます。 福音宣教も同じです。 「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(21節)」 不十分な、至らない私たちでさえ、神はお用いになれるのです。その幸いと光栄を覚え、小さい働きでも心をこめてしようと願わされます。 祈り:神様、あなたの十字架の恵みと力によって救われたことに感謝します。神の知恵は私たちの小さな働きにもみこころのままに働いてくださることを信じます。アーメン

ローマ16

「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。」ローマ16:3 パウロに「同労者」と言われたプリスカとアキラについては、使徒の働きにも出てきます。 パウロが信頼をおき、共に働いて教会を開拓し、宣教を進めていった人たちです。 ただ有能なわけではありませんでした。 「二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています(4節)」と、いのちがけの行動をとってくれたのでした。   聖書に名前が載ったり有名になったりというのは、名誉なことでしょう。しかしそれ以上に、その中身である彼らの心からの献身と、神と人に仕えた生涯こそ、永遠の価値につながることです。 永遠の価値につながるために、私たちは今日、どのように生きていきたいですか。 祈り:神様、あなたの目に価値あることに目をとめさせてください。消えていくものではなく、消えないもの、永遠のいのちとキリストに関することを、大切にできますように。今日が漫然とした一日ではなく、あなたに与えられた貴重な一日として喜び味わいたいです。アーメン

ローマ15

「このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。」ローマ15:20 パウロほど自分の召しを受け取ってその通りにした人はいませんでした。 イエスに出会って改心した時から、誤解や困難が続きました。多くの批判も受けました。 それでも、福音の働きをやめることはありませんでした。 旅をし、あちこちの町での異邦人への福音伝達という召し、そしてキリストにあるゴールを見据えていたからです。 翻って、私たちはどのくらい召しに立っているでしょうか。 転職、退職、病気、離別...という人生の転機で、何かを失うような思いになるかもしれません。しかし、それは召しを再確認するチャンスだとも言えます。 無力の中で、キリストが手招きしておられるのはどの方向でしょうか。 祈り:神様、パウロが福音のために手放したものは多くありました。しかし同時に、キリストの召しがいっそう明確になりました。 私は無力感を覚えることがありますが、それが主の召しを確信する時となりますように。 ____さん、____さんに、あなたの召しの確信と希望が豊かにありますようお祈りします。アーメン

ローマ14

「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。」ローマ14:13 人をさばくつもりがないのに、いつの間にか批判的になっている自分を発見しませんか。あの人はなぜ礼拝に遅れるのだろう、奉仕を無責任に投げ出すのだろう、言葉に配慮が足りないのだろう...、と。 昨日の礼拝はマルタとマリアの箇所でした。 私たちも、ともすればマルタのようになってしまいます。 そして、つい自分の尺度を相手に当てはめ、求めてしまいます。 「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか(4節)」と聖書は戒めます。 私には見えない心を主は見て評価されます。 人をさばくよりも、自分自身がつまづきにならないようにへりくだり、配慮することを求めることができますように。 祈り:神様、私の批判的な心、さばく心をゆるしてください。互いに認めあい、覆い合うことができますように。キリストの愛の心を与えてください。アーメン

ローマ13

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」ローマ13:1 これが現代日本のように民主的な政治体制なら、「そうかもしれない」と納得するかもしれません。 しかし、この手紙が書かれたのは1世紀、ローマ帝国の時代でした。 それはイエス様を十字架につけ、クリスチャンにネロが激しい迫害を行った、同じ世紀の同じ国のもとで書かれました。 歴史上最も残忍な軍隊とも言われる、あのローマ軍を擁する国でした。 その時代についてもこう言われるなら、今日の私たちが為政者やリーダーたちのために祈るのは、もっと容易だと言えます。 「税金を納め(6節)」、「争いやねたみの生活ではなく(13節)」、「品位のある生き方をし(13節)」、「主イエス・キリストを着なさい(14節)」も、私たちの生き方の目標だと教えられます。 祈り:神様、私たちの国のリーダーたちが主のみこころにかなった政治、決断ができますように。平和がきますように。世界を治めている政治家たちが主を恐れ、へりくだった人格となりますように。主のご計画のために用いられますように。アーメン

ローマ12

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1 「私たちのからだをささげる」とは、なんと難しいことでしょう。 肉体がそこにあって心で別のことを考えているなら、「からだをささげ」ていることにはなりません。 全身全霊でキリストに焦点を合わせることが求められています。 毎日、起きた途端にその日のことが気になるかもしれません。 しかし、3分でも5分でもキリストに思いを向け(たとえ布団の中にいても)、そこから今日を生きる習慣を身に付けたいと願います。 祈り:神様、とても難しい命令のように感じます。しかし、歯を磨く習慣、顔を洗う習慣と同じように、思いをキリストに向けて一日を始める習慣を身に付けることができるよう導いてください。そこから始めます。アーメン

ローマ11

「それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。」ローマ11:31 かつてのイスラエルの選びについてパウロは述べます。そして、今は不従順であることも。それは、キリストを救い主として信じず、福音を受け入れないからでした。 キリストが旧約聖書の預言の成就であったのに、それを信じないことを指摘しています。 今日のイスラエルは特別かどうかという議論があります。 しかし、その議論をする前に、イスラエルに限らず神の目にはすべての民族、すべての人が特別であるとわかります。 どの人も神のあわれみが必要であり、あわれみを受ける存在です。 だから、日本のために祈るように韓国、中国、・・・と国々のために祈り、イスラエルの為にも祈ります。 「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(36節) 祈り:神様、あなたはすべてのものの源であり、すべてを造られた方です。 造られた者として、神に栄光をお返しできますように。イスラエルをはじめ、世界の国々のために祈ることができますよう、福音宣教の働きへの目を開いてください。アーメン

ローマ10

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ10:17 「聴く聖書」CDやオンラインの「聴くドラマ聖書」をよく聞くという方がおられます。字が読みにくくなっても、みことばを枕元で聞きながら休むという方もおられます。 印刷術がない時代、多くの人にとって聖書は朗読されたものを「聞く」ものでした。 聞くことで信仰を養い、みことばの力を体験したのでした。 今も変わらず、神のことばであるみことばには力があります。それは心に届き、人生を変え、家庭や社会を変える力があります。 本やスマホアプリで、こんなに手軽にみことばにふれることができるようになりました。現代に与えられた大きな祝福の一つです。 祈り:神様、みことばに手軽に触れられることに感謝します。信仰の基であり、信仰を成長させ、キリストをより知るためのみことばを、私のたましいが慕い求めることができるよう、導いてください。アーメン

ローマ9

「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」ローマ9:20 この後、「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか(21節)」と続きます。 パウロは一つ一つ丁寧に説明していきます。 そして、この節ではよくわかるように陶器師と陶器の例を出しています。 すべては神の主権の元にあるので、造られた卑下したり比較したりするのは意味がないこと、文句や不平を言う必要がないことがわかります。 同時に、陶器師のように神様の大きな御手のうちにあること、心をこめて造られた私たちです。 それぞれの人に味があるということ、かけがえのない存在として造られたことを感じます。 どれほどの愛を神様は注いでくださっていることでしょう。 祈り:神様、陶器師であるあなたのみ旨によって造られたことに感謝します。 一人一人が主に愛され、価値ある存在であると知ることができますように。人生に絶望している人の元に、福音をあかしやトラクト、福音番組などを通して届けることができますように。アーメン

ローマ8

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」ローマ8:37 35節は「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と問いかけています。 「...苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」 肉体の痛みだけではなく、心の痛み、恥、恐れ、不安は私たちを揺さぶります。 この境遇のどこに希望があるのか、と思います。 しかし、そうした弱さがあるからこそ、いや弱さを通してこそキリストの愛が変わらないこと、キリストが栄光へと引き上げてくださることを、私たちは少しずつ教えられ、気づかされます。 挫折は挫折のままではなく、神様が次の章の扉を開けてくださることの備えだと、ある牧師先生がおっしゃいました。 一つの章を終え、次の章に導いてくださる主にあって、私たちは「圧倒的な勝利者」とさせていただけます。 祈り:神様、私たちを比較や劣等感から解放してください。うまくいかなかったことも含めてあなたの御手のうちにあり、運ばれると信じます。 今挫折感を覚えている_____さん、____さんを励ましてください。アーメン

ローマ7

「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」ローマ7:25 前の24節でパウロは嘆いています。 「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 というのも、善を行いたいのに自分の中には悪が存在し、肉の行いをしてしまうと自覚しているからです。 このパウロの嘆きは、私たち自身の嘆きでもあります。聖書の教えを聞いているのに、礼拝で「こうしよう」と決心したのに、ついまた失敗してしまいます。 しかし、パウロは続く25節で「それでも主イエスを通して、神に感謝する」と宣言します。 この弱さ、不完全さ、肉がまだ支配する至らなさをも、神が知ってくださっていること。 主の前に善を行いたいと願う思いが与えられていること。 その思いを与えてくださった方は、弱い私たちに聖霊をつかわし、肉を持ちながらも永遠のいのちの望みに生きることができるように導いてくださいます。 祈り:神様、私たちの弱さを知ってくださり感謝します。肉の思いに任せてしまい失敗します。聖霊の気づきと、悔い改めて向きを変える柔らかい心を与えてください。 ________のことについても、今日助け導いてください。アーメン

ローマ6

「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」ローマ6:11 この箇所にくると、いつも故我喜屋光雄先生を思い出します。 11節の「認めなさい」は「計算しなさい」「すでに計算ずみの伝票のようなもの」と聞いて、学生だった私は聖書の行間にメモしたことでした。 なんといっても、救いは行いではなく恵みによる、ということを繰り返し聞きました。 私たちの努力ではなく、キリストが成し遂げてくださったみわざです。 自分の感情ではぴんとこなくても、神様がすでに完了したと言われたから信じなさい、ということなのです。 肩の力を抜いて恵みに浸り、恵みが動機となって行動に至るのです。 毎週の礼拝も、主の恵みを確認し、その感謝で応答をする恵みの機会です。 祈り:神様、救いが信じる者に無条件で与えられる恵みであることを感謝します。このプレゼントの素晴らしさを日々味わう者となりたいです。気分や感情ではなく、救いの事実を認めます。一人一人が主を見上げる今日の礼拝に期待します。アーメン

ローマ5

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8 あこがれの人のために、なにか贈り物をしたことがありますか? 片想いかもしれないけれど、バレンタインにチョコをあげたということがありますか? 思いが届かないかもしれないのに、いのちまであげることができるでしょうか? それをしてくださったのがイエス・キリストです。 しかも、私たちがまだ罪人であった時に、すでになさったのです。 キリストを救い主として受け入れるかどうかは、私たちの自由意思にゆだねてくださいました。 言葉で表現するにはあまりにも大きく、あまりにも素晴らしいことです。 「どうしてそこまで」というほどの愛を注いでくださったキリストに、どのように感謝できるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛が大きすぎで、どう表現したらよいのかわかりません。でも、いつもその愛を思い返し、感謝したいです。導いてください。___さん、___さんの心にもこのキリストの愛が届きますように。アーメン

ローマ4

「しかし、『彼には、それが義と認められた』と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」ローマ4:23〜24 アブラハムの信仰が、私たちの義認と関係があるとは! 100歳で、人間的にはもはや望みがないと思った時に、アブラハムはそれでも神ならできると信じました。 私たちにも信じる心、信仰があれば義と認められるとは、なんと希望のある約束でしょう。 今日一日、じっくりとこの恵みを味わいたいです。 祈り: 神様、あなたの恵みを感謝します。「信仰義認」という言葉では到底表しきれない素晴らしい約束です。宝物を扱うように受け取りたいです。日々この素晴らしさを味わわせてください。アーメン

ローマ3

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ3:23~24 シンガポールに行った時、あるクリスチャンの方が私たちに名物のクラブチリ(蟹の煮込み料理)をごちそうしてくださいました。安くはない高級料理です。その方は神の恵みを分かち合うのだとおっしゃり、感謝してごちそうになりました。 私たちは、もし3000円のランチをごちそうしてもらったら「ありがとう!}と思います。 もしお年玉に1万円札が入っていたら「こんなにいいの?ありがとう」と思います。 しかし、1000万円、1億円と額が大きくなってくると、どういうことかピンとこなくなってしまうのが正直なところです。 「値なしに義と認められる」こともあまりにも価値のあることです。なぜなら、永遠のいのちがもらえるのですから。そして、その価値がどれほどかピンとこないのかもしれません。 しかし、そこにはイエス・キリストの十字架という対価が支払われています。 この大きすぎる恵みを感謝して受けとり、味わう者でありたいと願います。 祈り:神様、あなたの大きなプレゼントを感謝します。値なしに義と認め、信じる者には永遠のいのちをくださいました。どうか私も、神の恵みを人々に分かち合う者となれますように。与えられているものを、主にあって気前良く、同時に賢く用いる知恵を与えてください。アーメン

ローマ2

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」ローマ2: 29 ユダヤ人として割礼を受けていることや、律法を守ることが大切だと考えていたユダヤ人クリスチャンに、パウロは教えています。 外見や決まりを守ることではなく、心の思いこそ神の前に大切である、と。 当たり前のようにも読めます。 しかし、ともすれば私たちもユダヤ人クリスチャンのような態度を取りかねません。 例えば、礼拝はとても大切で、他の用事よりも優先させるべきものです。 しかし、ある日礼拝に遅れて来られた方が、その日家庭でトラブルがあったのだけど、どうしても礼拝に出席したいと必死で運転して集われたことがあります。 ある日の遅刻だけで信仰が弱いとは決して判断できないことを教えられます。 どのような思いで集い、主を見上げているかが大切です。 たとえ人にはわからなくても、主はそれを知っておられます。 祈り:神様、見かけだけで判断することがないように、私の先入観や偏った常識から解放してください。兄姉を愛します。ひとりひとりの心を主が知っておられるという事実に憩います。教会に集う特権が与えられていることに感謝します。アーメン

ローマ1

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」ローマ1:17 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(16節)と述べたパウロは、福音の力を確信していました。 この福音は「信仰に始まり信仰に進ませる」と断言しています。 なぜなら、それは聖書に書かれており、神の真理の義が表れているからです。 福音の素晴らしさを断言できるでしょうか。福音の体験をどのように説明できるでしょうか。 どんなに小さくても、ありきたりでも、それこそがあかしであり、人生の宝です。土に埋めておくのはもったいないですね。 祈り:神様、私が福音を受けとったのは、_______のことがきっかけでした。どんな経験を通しても主が働いてくださり、永遠のいのちを与えるために導いてくださったことを感謝します。私も、福音を恥とせず、折にかなった方法であかしすることができるよう助けてください。アーメン

使徒28

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」使徒28:30,31 使徒の働きの最後は、パウロが捕らわれの身でありながらいよいよ力強く福音を伝える様子で終わります。 そこには悲壮感はありません。 パウロの多くの手紙が各地の教会に届き、人々はどんなに励まされたことでしょう。 神様の計画は回り道に見えて最短距離です。 挫折に見えて飛躍です。 それは、聖霊が共におられ、その働きが自由でユニーク、希望を与えるからです。 祈り: 神様、当時と同じ聖霊というお方が、今日も働かれていることを感謝します。 今週も期待します。 主にあって謙遜に、たゆみなく歩ませてください。アーメン

使徒27

「さて、穏やかな南風が吹いて来たので、人々は思いどおりになったと考え、錨を上げて、クレタの海岸に沿って航行した。」使徒27:13 11節を見ると、「百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した」と書かれています。 船長や船主は普段から海のことに関わっているので、素人のパウロよりも信頼できると思ったのでしょう。 しかし、パウロの忠告を聞き入れなかったので、船は難破します。命からがらマルタの陸にたどりつく一行でした。 パウロの忠告は、祈りと聖霊の導きに基づくものでした。 百人隊長はようやくそのことに気付いたのでしょうか。 「百人隊長はパウロを助けたいと思い、彼らの(パウロを殺してしまうという)計画を制止し」た(43節)とあります。 私たちは誰の言葉に耳を傾けているでしょうか。 人の評価に頼り、神のことばを聞きそびれないようにと願います。 祈り:神様、あなたが聖霊を通して語ってくださることば、聖書のことばを聞き逃さないよう、霊の耳を開いてください。今信仰が弱っている人がいるなら、励まし導き、その霊を奮い立たせてください。アーメン

使徒26

「しかし、パウロはこう答えた。『わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。』」使徒26:29 どんな時もパウロの視点の中心は自己弁明でなく、福音をどのように証しできるかということに向けられていました。 人間関係の問題はつらいものです。特に誤解されたり根も葉もないうわさを流されたりする時は。 しかし、それは一時的だということを心に留めましょう。 そして、もっと価値のある永遠に心を向けることができるよう、助けを祈り求めましょう。 祈り:神様、あなたのくださる永遠のいのちの素晴らしさに比べたら、今の一時の辛さや問題はずっと小さいものだと信じます。どうか忍耐を与え、主の御腕の陰に私を隠してください。アーメン

使徒25

「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」使徒25:11 パウロを巡る、ユダヤ人や政治家たちの策略や陰謀、自己保身による弁明が交錯します。 昔も今も人間の性質は変わらないのだなあと思います。 シンガポールで最高裁判所跡に行きました。法廷がそのままギャラリーになっていました。 2階席が傍聴人のためのもので、そこから下を見下ろして裁判を見学したのです。 被告を見下げるような配置でした。 パウロも同じように見下げられたでしょう。 しかし、彼の弁護人は最も高いところにおられるキリストであり、聖霊がいつも語るべき言葉を与えてくれていたのでした。 祈り: 神様、主の名のために見下げられている人を助けてください。聖霊様が語るべき言葉を教えてください。 今パウロのように迫害にあっている人が強められますように。アーメン

使徒24

「二年が過ぎ、ポルキウス・フェストゥスがフェリクスの後任になった。しかし、フェリクスはユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを監禁したままにしておいた。」使徒24:27 フェリクスはパウロの話に興味を持ちました。 この道(福音)についてもかなり詳しく知っていた(22節)ようです。 それなのに、パウロを監禁しておき、結局キリストを救い主と信じることがないまま去っていきました。 今日も福音が知らされているなら、受け入れるかどうかはその人にかかっています。 フェリクスのようでしょうか。あるいは素直に受け入れるでしょうか。永遠のいのちがかかっています。 祈り:神様、福音を聞いた人、興味ある人が、それを開かれた心で受け入れることができますように。___さん、____さんが救われますように。アーメン                      

使徒23

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』と言われた。」使徒23:11 神様のみこころがローマへパウロを遣わすことだったと、ここでわかります。パリサイ人だったことも、ローマ市民権を持っていたことも、全てはこの神の計画のために用いられました。 人生で、無駄な選択をしたと思うことがあるでしょうか。 人の目には回り道に見えることも、神の御心を果たすために必要な備えであることがあります。 理解するのに時間がかかる、あるいは理解することは地上ではないかもしれませんが、やがて明らかになることに期待します。 祈り:神様、私の目には選択を誤ったとか、回り道だったとか思うことがあります。しかし全てを主のものとしてください。あなたの良いみこころの実現のために用いてください。そのことを信じて感謝します。アーメン

使徒22

「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」使徒22:21 パウロは自分の信仰の経緯を話します。 「主よ。この私が会堂ごとに、あなたを信じる者たちを牢に入れたり、むちで打ったりしていたのを、彼らは知っています。 また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私自身もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの上着の番をしていたのです。』(19〜20節)」 人々はそれを途中で遮り、殺してしまおうとしました。 しかし神はパウロを守られました。ローマ兵を通してさえ、パウロの命を守られたのです。 キリストを迫害する存在だったことを、神ご自身は誰よりもよくご存知でした。しかしパウロの心を生まれ変わらせ、異邦人に遣わす器として造りかえてくださったのです。 どんな過去があっても、主はその全てを知っておられます。そしてそれにもかかわらず、私たちをご自身の働きのために用いてくださるのです。 祈り:神様、私の過去の___のこと、___のことをあなたはご存知でした。それでも私を愛し、救い、導いてくださることに感謝します。あなたの御心を行うものとなれますように。アーメン

使徒21

「すると、パウロは答えた。『あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。』」使徒21:13 前章から、聖霊の示しが何度も出てきます。パウロに関する聖霊の語りかけがあったことがわかります。 複数の信仰者が、エルサレムにパウロが行くのは危険だと忠告しました。 中には「行かないでくれ」と懇願する人たちもいました(12節)。 使徒の働きを記したルカも案じていました。 しかし、パウロは答えます。 「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(13節)」 聖霊の語りかけを無視したのでしょうか?いいえ。 聖霊の警告は警告として受け止めました。 しかし、泣いて「行かないで」というのは聖霊ではなく、人々の感情でした。 人の情と神のみこころ、どちらを聞き入れ優先するかという判断にも、聖霊がパウロに働いたことを学びます。 祈り:神様、感情や理性はあなたが備えてくださったものですが、みこころ以上になることがないよう、謙遜さと主に従う心を与えてください。決断が必要な時こそ、主にゆだねることができますように。アーメン

使徒20

「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」使徒20:28 エペソの教会へのパウロの勧め、励ましは一貫しています。 教会がいかにキリストに愛されているかということ、 その教会を愛し建て上げることが主のみこころにかなっているということ、 群れに属する者として教会のからだの一部となることなどです。 離れて旅路にあっても、投獄されても、エペソの教会(その人々)を思う心は変わりませんでした。エペソ人への手紙にも同じ思いがあふれています。 このパウロの思いは、神の愛の思いが流れ出たものでした。 「神がご自分の血をもって買い取られた」 「神の教会」 なのです。 今日、礼拝に集うことは、私たちが神の教会に属する特権ゆえに与えられた、かけがえのない機会です。キリストを頭として礼拝する恵みを覚えます。 祈り:神様、今日も礼拝に集えることに感謝します。それが霊肉にとってどれほどの恵みであるか、それを信じ受けとります。オンラインで参加する方にも、聖霊がその場所に行き巡り、同じ思いで礼拝できますように。語られるみことばに期待します。アーメン

使徒19

「 これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。」使徒19:10 何が続いたかというと、 「パウロは会堂に入って・・・神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、・・・毎日ティラノの講堂で論じた」(8~9節) でした。 頑なな人々や、妨害する人たちはいました。 けれども、あきらめず神の国について論じ続けたのでした。 福音からぶれることはありませんでした。 そうした時に聖霊が信じた人に臨み、異言や預言が語られました。 またしるしと奇跡が起こりました。 それらは神が行われたのでした。 霊的な妨害には霊的な力で神ご自身が働いてくださいます。 私たちにゆだねられているのは「あきらめず、神が置いてくださった所で信頼し続ける」ことです。 祈り:神様、私にあなたを信頼する心を増し加えてください。今の環境の中で、あなたが私に望まれていること知ることができますように。聖霊の導きと促しを期待します。アーメン

使徒18

「そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。パウロは二人のところに行き、」使徒18: 2 コリントでパウロはアキラとプリスキラに出会います。 二人は元々イタリアにいましたが、退去命令を受けて来ていたのでした。 しかもパウロの同業者でした。 この運命的な出会いがあり、コリント教会とエペソ教会の基礎が築かれました。 意図しなかった人生の転換があっても、それが神の御手の中にある事実を確認します。 やむを得ない事情を通じてでさえ、大きな神のご計画のために用いられます。 祈り:神様、あなたの大きなご計画に期待します。人生が思うようにいかなかった時でも、あなたの守りとみこころが進むことを信じて希望を失わないよう、助けてください。アーメン