投稿

9月, 2024の投稿を表示しています

ヨハネ7

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の059心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 」ヨハネ7:38 当時は、祭司が祭儀用の水をシロアムの池(貯水槽)から神殿に日々運んで来たと言われています。 水は神へのささげ物として、賛美とともに儀式の中で祭壇に注がれました。 続く39節には 「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」とあります。 イエス様はご自分を信じる者には聖霊が与えられ、心の奥底から「生ける水の川」として流れ出ると言われました。 尽きることのない水源のように、信仰者に与えられた聖霊が自由に流れ続けてくださると約束されています。 季節の変わり目で夏の疲れが出る頃です。気力がわかないこともあります。 しかし自分の力ではなく、聖霊の力が働いておられる事実を認めたいと思うのです。 余計なことはせず、静まって聖霊の語りかけを待ち望みます。 祈り:神様、心も身体も疲れ気味の方々をねぎらってください。あなたの愛で励まし聖霊様で心を満たしてください。必要な休息と静まりの時間が与えられますように。アーメン

ヨハネ6

「わたしはいのちのパンです。」ヨハネ6:48 聖餐式は楽しみですか?毎月行う教会もあれば、毎週行う教会もあります。いずれにしても、キリストの教会はこの礼典を大切にしています。 イエス様はご自身を「いのちのパン」と表現されました。 信じる者は肉体は滅びても、霊的な永遠の「いのち」を持っています。 聖餐式は、十字架で裂かれた主の肉体と流された血を覚えて行います。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(54節)」 という意味をかみしめながら行います。ぶどう液とパンを通して、十字架の恵みを思い起こします。 月1回として、1年に12回、10年で120回。主の恵みを改めて思い起こす、貴重な機会です。体調を整えて臨む方々の中に、キリストの愛を味わい応えたいという熱い思いを感じます。 祈り:神様、主イエス・キリストの十字架の恵みと意味が、ひとり一人の心に迫りますように。からだを「いのちのパン」として差し出してくださった熱い愛を、さらに多くの方が知ることができますように。アーメン

ヨハネ5

「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。」ヨハネ5:5 袴田さんの無罪判決が出ました。冤罪だと言われてからも長い年月がかかり、事件から60年近くを経ての判決でした。 お姉さんの笑顔が印象的でした。 ところが、ご本人は判決を聞いても自身のこととはピンとこないようでした。長年精神の極限状態を経験した人なのだと、改めて考えさせられました。 38年間ベテスダ池のそばにいた人も、自分が癒されるとは思えなくなっていました(「良くなりたいか」と聞かれた後の返答、7節)。 癒された後に尋ねられると、誰が癒してくれたのかわかりませんでした(13節)。 後になってイエス様だと知ったこの人は、その時に救い主をはっきり知ることができました。 私たちも、イエス様の救いを知りながらピンと来ていないところがあるかもしれません。長年の自己中心的な歩みのせいであったり、肉の習慣に引きずられていたり、いろんな原因があるでしょう。 救いと罪からの解放ということの大きさをじっくり思い巡らし、味わい、感謝を新たにする秋になりますように。 祈り:神様、あなたの救いがぼんやりとしているところがあるなら、その意味がよくわかるように助けてください。もうわかったつもりでも、さらにその素晴らしさと主の愛の大きさに気づかせてください。アーメン

ヨハネ4

「ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。」ヨハネ4:37 以前狭山の教会に来られていた方が、他の教会で洗礼を受けたという知らせを聞くことがあります。 逆に、よその教会のチラシを見て狭山の教会に来られる方もおられます。 どちらにしても、福音を分かち合うのは神様が私たちに託された共同作業です。 縄張りはなく、独り占めでもなく、互いに協力し福音の収穫を喜び合うのだと、教会も、そしてひとり一人も、いつも意識していたいものです。 祈り:神様、ひとりの救いには多くの人々と祈りがあることを覚えます。___さんの救い、___さんの信仰のリバイバルを祈ります。近隣の____教会、____教会のために祈ります。主にあって共に歩む信仰者の群れを祝福してください。アーメン

ヨハネ3

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:17 夏の疲れが出てくる頃です。教会もいくつか行事が重なりました。 疲れると、些細なことが気になったり、対人関係の距離感が難しかったりします。 静まって神様の安息にひたる時間が必要な時期かもしれません。 16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 は、聖書の中の聖書と言われる有名な箇所です。 さらに、続く17節でも、神が御子を世に遣わされたのは、「さばくためではなく、御子によって世が救われるため」だと述べられています。 神様は良いお方です。私たちが日々生きるのも、神様の愛の上に土台を置いているから平安です。様々なことに目が向いてしまうほど疲れたら、今ひとたび自分の足はどこに土台を置いているかを確かめたいと思います。 祈り:神様、。あなたの愛に感謝します。今両手を広げ受け取ります。私の今日の歩みの足を、あなたの愛の上に置きますから導いてください。 疲れを覚えている___さん、___さんのために。 能登半島に住む人々のために、心が支えられ、実際的な助けが満たされるようお祈りします。アーメン

ヨハネ2

「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」ヨハネ2:22 イエス様は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(19節)と言われました。 それは、46年かかって建てられたエルサレム神殿の建物ではなく、イエス様ご自身のからだという神殿(21節)についてでした。 十字架にかかって「壊れた」ように思われた主のからだは、三日目によみがえりました。しかも、今も生きておられます。 「イエス・キリスト」という名前は、偉人として日本人の多くが知っています。しかし、その方が救い主であり、今日の私たちを愛して十字架にかかったことをどれだけの人が知っているでしょうか。三日目によみがえり今も生きておられる主であることを知っている人は、ごくわずかです。 先に知った私たちは、そのよい知らせを分かち合うよう召されています。 祈り:神様、復活のからだでよみがえられたイエス様が、今も生きておられ、私たちの人生と大きな関係があることに感謝します。今日職場で、学校で、近隣で、家庭で、どのように福音を分かちあえるか、そのための備えができるのか、歩みの中で教えてください。アーメン

ヨハネ1

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1:14 チャリティーコンサートがありました。地震と大雨が重なった能登のためにささげられます。 ヨハネの福音書は「すべての人を照らすまことの光」であるキリストを宣言することから始まっています。 ことばであるこの方は人となり、私たちの間に住まわれ、恵みとまことに満ちておられました。 この方は「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」を現されました。 暗いニュースが多い世の中にあっても、私たちは同じキリストの栄光を今日見出だすことができます。 祈り:神様、キリストの栄光を私たちが今日見いだすことができるよう、霊の目を開いてください。あなたの希望がこの日本に広がりますように。自分のことだけでなく、日本や世界のために祈れるよう、私の祈りを開いてください。アーメン

ルカ24

「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」ルカ24:32 「心は内で燃えていた」 とふりかえる二人の弟子でした。 彼らはそれを流してしまいませんでした。 ただちに立ち上がってエルサレムに戻り、道中のことを話しました。 エルサレムにいた十一人と仲間も、イエス様が復活されたことを話していました。 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました(36節)。 さらに焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がられました(42~43節)。 あかしと分かち合いが励ましだけでなく、主の臨在を共に喜ぶ時となりました。 今日も、教会ではあかしと分かち合いが行われています。そしてその中止にはイエス様がおられます。 祈り:神様、共に分かち合い祈り合える、霊の兄弟姉妹を感謝します。主のからだである教会につながる幸いを、感謝しつつ今週も歩みます。アーメン

ルカ23

「百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、『本当にこの方は正しい人であった』と言った。」ルカ23:47 聖書の中でも最も暗い章の一つです。神の子を十字架にかけて殺すという場面です。 しかし、23章の暗闇の中で、一筋の光が見えるような節があります。 イエス様の姿が信仰をもたらした人々の様子が出てくる節です。 イエス様の無実を信じ、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた犯罪人の一人(41~43節)。 「本当にこの方は正しい人であった」と言った百人隊長(47節)。 議員たちの計画や行動に同意せず、ピラトのところに行って、イエス様のからだの下げ渡しを願い出たアリマタヤのヨセフ(50~53節)。 絶望に思える時でさえ、神様は生きておられ、人の心に働かれます。 神にある希望はなくなることがありません。 私たちの歩みも、どんなに暗く思えても、そこに主が生きて働いておられます。 祈り:神様、私たちにはわからない状況でも、そこに働いておられることを信じてあなたに信頼します。孤立無援に思える時、主が共にいてくださることが感じられますように。難しい状況を通っている___さん、____さんに主の希望が確信と共に感じられますように。アーメン

ルカ22

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」32節 まもなく捕えられ十字架にかけられることを、イエス様は知っておられました。ぺテロがご自身を否認することも知っておられました。 そうした極限の状況で、ぺテロのために祈り励ましてくださったのでした。 「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。(26節)」と語られた以上のことを、イエス様は身をもって示されました。 この方が、私たちのことを愛し続けてくださらないわけがあるでしょうか。いいえ、徹底的に愛し、いのちをささげ、世の終わりまで私たちと共にいてくださいます。 この方のお名前を通して、私たちは祈ります。仲保者であり、祈りを聞き届けてくださる方であることを信じています。「イエスの御名」には力があります。 祈り:神様、キリストの愛を感謝します。この方のお名前を通して祈ることが許されていることに感謝します。この特権を受け取ります。 ____のことも、_____のことも、イエス様にますます信頼して祈ることができますように。アーメン

ルカ21

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」ルカ21:28 私は子どもの頃、終末の話が怖くてたまりませんでした。一人置き去りにされ、見捨てられたらどうしようかと、その恐怖におびえました。幸い、今は黙示録が希望に満ちていることに気づき、その恐怖から脱出することができました。 一般に終末が恐ろしく感じられるのは、映画や小説で滅亡の場面が出てくるからでしょうか。苦難ばかりが強調されるからでしょうか。 たしかに、聖書には苦難が記されています。 しかし同時に、終末がキリストの再臨と栄光、歴史の完成である輝かしい時であることが約束されています。それは、信仰者の完全な贖いの時でもあります。 「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(36節) とあるように、注意深く主に聞き、信仰から離れることなく過ごしているなら大丈夫です。 信仰者にとっては、恐れる必要はありません。 むしろ、終末を待ち望み、預言の成就を期待するというのが健全な姿勢です。 祈り:神様、歪んだ恐怖でなく、キリストと共にいるなら大丈夫だという平安を私たちに与えてください。「マラナタ(主よ、来てください)」と祈った初代教会の信仰者のように、キリストの再臨の素晴らしさを期待します。信仰を強め、希望をもって祈る者にしてください。アーメン

ルカ20

「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。」ルカ20:26 政治家や実業家が、ふと漏らした一言で大変な批判を受けたり失職したりするのをニュースで見聞きします。 私自身も、発言が意図しないニュアンスで記録されたことがあります。自分の言葉足らずを反省するものです。 エルサレムでのイエス様は、十字架にかかられることを知りつつも、一つ一つに的確に対応されました。 宗教リーダーたちが何とか陥れようとしますが、ことごとく失敗します。 この態度と知恵を見るだけでも、不完全な人間には真似ができません。 イエス様が普通の人ではなく神の子、キリストであると知り得ます。 祈り:神様、イエス・キリストが神の子として地上に来てくださり、もう一度来られるといういう約束を感謝します。不完全な私たちの言葉や態度が相手を傷つけたり、傷つけられたりします。そのたびにキリストの元で悔い改め、ゆるすことができますように。兄弟姉妹が今日直面する人間関係を祝福し、そこでの問題に解決が与えられますように。アーメン

ルカ19

「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。」ルカ19:4 小学生の頃、ザアカイの話が大好きでした。 自分と同じように小さくて、それでもイエス様をひとめ見ようと木に登ったこと。イエス様がちゃんと彼に気づいていて、声をかけてくださったこと。そして、彼が自宅に招いて、今までの悪い行いを悔い改め、償うと決心するハッピーエンドであること。 子どもの心は、ザアカイと一緒にそばのいちじく桑の木へ走り、よいしょ、よいしょと木に登り、どきどきしながら彼と一緒に木の上から道を見下ろすのでした。 今も、教会で子どもたちが目を輝かせて聖書の話を聞いています。1回1回がかけがえのない種まきの機会だと教えられます。 子どものために、また子どものような開かれた心を持った人のために、教会は祈り仕える幸いを託されています。 祈り:神様、教会に来る子どもたちに福音がまっすぐに入りますように。毎週はもちろん、キャンプやクリスマスの機会も用いさせてください。心を開いて集う大人にも、十字架の恵みと主の愛がまっすぐに届きますように。____さん、____さんを覚えてお祈りします。アーメン

ルカ18

「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」ルカ18:27 教会にいると、このことばを実感します。 さまざまなきっかけで教会を訪れる方がいます。誘われたわけでもないのに、行ってみようと思う方もいます。 長年「信じられない」と悩んでいた人が、あるとき救いを受け入れるお祈りをされます。そして洗礼を受けます。 誰からも強制されていないのに、喜んで教会の奉仕をします。礼拝が楽しみになります。 その他にも不思議な思いや導きを、じわじわと体験します。 すべて、人のわざではありません。神がそのようにしてくださるのです。 私への聖霊の働きが、確実に日々あることに気づきます。 祈り:神様、人にはできないことがあなたにできることを信じます。私にも日々聖霊が働かれ、導いてくださることを感謝します。____さん、____さんが、あなたの導きに確信を持てますように。アーメン

ルカ17

弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」ルカ17:37 再臨のときまでに起こることをイエス様が説明されると、弟子たちは「主よ、それはどこで起こるのですか」と尋ねました。 イエス様の答えは「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります」でした。 これは、死体にはげたかが群がるように、当然の帰結、結果であるという意味です。 再臨までのプロセスが必ず起こるのだということを言われました。 もっとも、怖がる必要はありません。聖書の預言を通して神様はご計画を示し、約束を果たしてくださいます。 そして、主のご計画は希望を与えるものです。 黙示録を読むオンライングループに参加しました。聖書を少しずつ、丹念に読み、祈り、思いめぐらし、主のご計画と希望を学びたいと思っています。 祈り:神様、終わりの時までのご計画が、信じる者にとっては決して恐ろしいものではないことを感謝します。主に期待し、みことばの約束を見上げて歩めますように。私たちの生涯に、あなたのご計画がなされていきますように。アーメン

ルカ16

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」ルカ16:10 「不正な管理人のたとえ」が語られます。 イエス様は、不正をほめられたわけではありません。 そうではなく、賢く行動したその知恵について言われたのです。 富やお金自体は悪いものではありません。しかし、それを偶像のように扱う人の何と多いことでしょう。 地上の富は、天の国に比べたら些細なものです。過度に心奪われず、どのように管理しおじけず上手に用いるかが問われています。 今日、与えられた最も小さなこととは何でしょう。それを誠実に行うことから、信仰生活を実践することができます。 祈り:神様、私の心が小さなことにも忠実でありますように。祈り、聖霊に頼って判断し、今週も歩めますように。日常の中に主の栄光が表れますように。アーメン

ルカ15

「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」ルカ15:7 一人が主の元に戻ってくるのが、どれほど天で素晴らしい喜びかが連ねられています。 ・100匹の羊のうち1匹がいなくなり、それが見つかった ・銀貨10枚のうち、なくした1枚が見つかった ・放蕩の限りを尽くした弟息子が帰ってきた 「私一人くらいいなくてもたいしたことがない」という考えを、聖書は完全に否定します。あなたには価値がある、というのが聖書のメッセージです。 元ヤクザの方が紆余曲折の上に改心し、とうとう洗礼を受けることになったそうです。洗礼式の日に、天使たちが「生まれたよ!」「生まれたよ!」と叫ぶ幻が見えたそうです。 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。(32節)」という父親のように、神様は一人がご自身の元に帰ってくることを喜んでくださいます。 祈り:神様、私がキリストを信じた時、どれほど喜んで迎えてくださったかを思います。私たちを愛してくださり感謝します。私たちも、一人の救いを天使と共に喜びます。明日の敬老礼拝、特別集会に期待します。アーメン

ルカ14

「あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。」ルカ14:28 ある友人が、「神様のものを賢く管理する」という人間の責任について、この節が大きな励ましだと話してくれました。 その人は不動産など、多くのものの管理を任されているそうです。 それらの管理は片手間でできるものではなく、専門家に相談し、誠実に税金や費用を納め、よい状態に保っていくために大きな労力と時間がかかる、とのことでした。 大きな財産を託される人には、私には想像もつかない苦労があるのだなあと思いました。 しかし、私たちには時間という貴重な資産が日々平等に与えられています。また、身のまわりにあるものは、私たちが管理を託されています。 今日着る服も、与えられていることに感謝し身に付けたいと思います。 祈り:神様、与えられているものに感謝します。量や種類は違っても、日々私に託されているものを感謝して管理できますように。教会に与えられている環境や状況にも感謝します。アーメン

ルカ13

「そこで、イエスはこう言われた。『神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。』」ルカ13:18 続けて言われました。 1. それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。(19節) 2. それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三092サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。(21節) 共通点は からし種もパン種も、小さな種であること その種から、全体がとても大きくなること です。 そしてもう一つ、「人が種を取って蒔く(入れる)」ことです。 種を造られたのも大きくしてくださるのも神様です。ただ、私たちにゆだねられているのは、与えられた種を「取って蒔く(入れる)」ことです。 宣教は人と神との共同作業です。神様がそのように、私たちにも役割を与えてくださったことを光栄と受けとり、応答したいと思います。 祈り:神様、神の国について教えてくださり感謝します。小さな者にもともに関わる機会を与えてくださっていることを覚えます。成長させてくださる神様をあおぎながら、今日も聖霊によって歩ませてください。アーメン

ルカ12

「主は言われた。『では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。』」ルカ12:42~43 先週のある夜、町内会の帰りのことです。道端に黒い財布が落ちていました。現金だけが入っており、名前はありませんでした。しかし、会社のマークが財布にあり、業務用のようでした。それですぐに連絡しお渡しすることができました。 クリスチャンならば、誰でも同じようにするでしょう。直接お返しするなり警察に届けるなり、所有者の手元に届くように行動することと思います。 聖書のいう賢い管理人とは、すべての所有者である神のために管理する人のことです。 地上にあるものを、神様の望まれるように用い、最終的には神様にお返しすることです。 今日手元にゆだねられているものを、どのように用いることが神様の喜ばれることでしょうか。管理が苦手だと思う人(私を筆頭に)こそ、浪費からもケチな心からも守られるよう、よい使い方ができるよう日々祈りたすごしたいです。 祈り:神様、あなたの知恵を頂いて、時間、体力、お金、賜物、その他与えられているものを使うことができますように。あなたが一人一人を管理人として召してくださいました。ゆだねられたものをみこころに従って用いることができるよう、今日も教えてください。アーメン

ルカ11

「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。」ルカ11:3 礼拝の子どもメッセージは、出エジプトの民に日々マナが与えられる箇所でした。 肉体の食物だけでなく、霊の食物も与えてくださいと日々祈る者に、神様は必要を必ず与えてくださいます。 「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(13節)」 祈り:神様、日々の必要を与えてくださり感謝します。肉体の必要と同じくらい、霊の必要について気づき、求めることができるように助けてください。アーメン

ルカ10

「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」ルカ10:41~42 教会の中には、さまざまな性質や特性を持つ人が集まっています。 そして、神様が一人一人に望まれることも違います。 マリアのように、そこでじっとみことばに聞く存在奉仕もあれば、 マルタのようにもてなしや実働の奉仕もあります。 大切なのは、それぞれが主の願われることをし、 互いにさばかないことです。 感性も違えば理想も違う、しかも不完全な人間の集まりです。 そしてその集まりはキリストのからだであり、キリストに花嫁のように愛されています。 なんという不思議、あわれみ、感謝でしょう! 祈り:神様、教会に集められている一人一人を感謝します。誰かをさばきそうになった時、自分自身の至らなさに思いをはせ、何よりも主の忍耐とあわれみに感謝することができますように。アーメン

ルカ9

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」ルカ9:51 イエス様はついてきた群衆を喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治されました(11節)。 5つのパンと2匹の魚から、群衆を養われました。 悪霊につかれた息子を癒されました(42節)。 一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、一番小さい者が一番偉いと言われました(48節)。 やさしく、あわれみに満ちたまなざしの一方、ご自身の召しについては徹底的に父なる神に従われました。 十字架にかかるために、自らエルサレムに「毅然として進んで行かれた(51節)」のでした。 また、時に厳しく弟子たちを戒められました。 厳しさと優しさが両立することを、イエス様自身の中に見ることができます。 戒める勇気と、慰め励ます愛の両方を、私たちにも与えてくださいと祈ります。 同時に、他者からの戒めも愛と同様、素直に受けとることができますようにとも願います。 祈り:神様、私の心を守ってください。主にある勇気と謙遜さを、イエス様の姿から学びます。恵みも戒めも、受けとることができますように。アーメン

ルカ8

「また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」ルカ8:8 酷暑の8月よりも、朝晩しのぎやすくなった9月の方が、雑草が茂ります。 教会の駐車場にも、あっという間に雑草がのびてきます。 雑草の生える地は、一見緑ですが、「良い地」とは限りません。 かちかちで、雑草の根が強すぎることもあります。 種のたとえで言えば「茨の地」でしょうか。 対して良い地とは、耕され、雑草を取り除かれ、黒色のふかふかした土の場所です。 ぱっと見ただけの緑でなく、今はむき出しの大地でも、やわらかさと備えができている土地です。 人のうわべや表面的なやり取りだけでなく、その奥の心まで判別されるのは神の霊です。聖霊に聞きながら「平安の子」と出会い、福音の種まきができますように。 祈り:神様、あきらめることなく、しかし空を打つようなことなく、あなたが導いてくださる所にみことばの種をまかせてください。収穫の秋のように、救われる人を起こしてください。アーメン 「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」ルカ8:15

ルカ7

「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」ルカ7:13 「言行一致」ということばがあります。イエス様ほどそのことばと行いが一貫していた方はいませんでした。 6章ではさばかないこと、あわれみ深くあることを教えられました。 そして7章では息子を葬る母親に会い、深くあわれまれました。 死人をよみがえらせた奇跡がその後に記されています。 悲しんでいますか?落ち込んでいますか?主はそんな私たちを見て、今日も深くあわれんでくださいます。「泣かなくてもよい」と声をかけてくださいます。 その方の元に身を避けるとき、慰めとあわれみの大きさを知ります。 木曜集会では「恥」がテーマでした。 私たちが恥意識を覚える時も、イエス様はあわれんでくださいます。 どうしようもない時でも、身を避ける場所があります。 祈り:神様、私の持っている恥、悲しみ、落胆をあなたの元に持っていきます。 あなたの深いあわれみで、私を救ってください。 今落胆している___さん、___さんを、あなたが慰めてください。アーメン

ルカ6

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ルカ6:38 「与える賜物」という表現があります。 クリスチャンは皆、キリストの十字架の恵みに応答して喜んでささげる者ですが、中でもささげること、与えることが喜びだ、という人がいます。 その人が特別裕福とは限りません。 むしろ、普段はつつましく暮らしておられる人がほとんどだと思います。 でも、宣教や助けのために必要だとわかると、気前よくささげます。 額そのものというより、その人の姿勢が周囲や教会を励まします。 そして、神様はその人を守られます。 「若かったころも年老いた今も 私は見たことがない。  正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを。(詩篇37:25)」 祈り:神様、私に与える心を増し加えてください。聖書の約束に信頼し、神様に信頼する心を与えてください。祈る心を加えてください。______、______の働きのためにお祈りします。アーメン

ルカ5

「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」ルカ5:4 シモンたち漁師は網を洗いながら、不漁の夜を思いめぐらしていたでしょうか。 舟から群衆を教えるために、イエス様は舟を陸から少し漕ぎ出すよう頼まれました。 群衆に語られることばを、シモンはどんな気持ちで聞いていたでしょうか。 きっと彼の耳にはイエス様の教えが入っていたのだと思います。 その後のイエス様のことばに従い、彼は網を下ろしました。プロの漁師ならありえない見立てでしたが、ことば通りに魚がおびただしくとれました。 漁師の心をイエス様が段階を追って柔らかくし、ご自身にすすんで従うことができるように導いてくださいました。 イエス様は、私たちを無理矢理引きずっていく方ではありません。私たちの心の動きをよく知り、紳士的に導いてくださる方です。 祈り:神様、あなたは人の心を一番よく知っておられる方です。私の心も、そして___さんの心も知っておられ、導き優しく変えることのできる方です。まず私自身を整えてください。アーメン

ルカ4

「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』」ルカ4:43 働きを終え別の所に移動する宣教師、新たに開拓を始める牧師・伝道師、あちこちを回る巡回伝道者...。 その生きざまを尊敬し、指導を受けていた人と会えなくなるのはとても寂しいことです。 しかし、神様の導きに従い出ていく人たちの、勇気と従順に励まされもします。 その姿は使徒パウロのようでもあります。 そして、そのパウロはイエス様の教えに従いました。 イエス様ご自身が「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」とご自身の使命からぶれることがありませんでした。 今日も同じように使命に従う人たちを祈りに覚え、支えるミッションが私たちにも与えられています。教会の掲示板にある宣教師や団体のニュースレター、献金先からの情報...。それらに関心を持ち、祈り心で読むことも、宣教の第一歩です。 祈り:神様、あなたの召しに従い出ていく宣教師や牧師、伝道者たちを覚えます。今____で、困難の中主の働きに励む方々に、あなたがねぎらい、報いてください。私にできることを教え、実行に移すことができるよう導いてください。アーメン

ルカ3

「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、...」ルカ3:23~ マタイに続き、ルカ3章でも系図が出てきます。今度はヨセフ側です。 厳密には、イエス様とヨセフは血がつながっているわけではありませんでした。 それでも、処女降誕からマリアと共にイエス様の成長を見守り、エルサレムで3日間行方不明の彼を捜しまわり、地上で家族として歩みました。 このヨセフも、さかのぼると「アダム、そして神に至(38節)」ります。 ヨセフを造られた神様は、彼の生涯と地上での召しを明確にもっておられました。 彼の存在はそれほど目立たなかったかもしれませんが、イエス様を育てるという彼の果たした役割は、救いの計画のために特別に備えられたものでした。 私たちも、それぞれに役割を神様から与えられています。 人と比較しなくても、それが神の望まれる歩みなら、最大限に意味のある人生だといえます。 祈り:神様、私に備えてくださった環境や歩みを受け取ります。幸せそうな他者と、表面で比較することがないよう守ってください。様々な事情で一人で子育てをしている___さん、____さんと子どもたち、里親と子どもたち、最近別離を経験した人たちに、主の力強い御腕と愛が感じられますように。アーメン

ルカ2

「すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』」ルカ2:49 台風10号が迷走し、予想とかなり異なるコースを進みました。また、上陸した地域だけでなく、離れた場所で雨の被害が出ました。 これだけスーパーコンピューターや予報技術が発達しても、私たちの知恵や知識に限界があることを改めて感じました。 12歳のイエス様がエルサレムからの帰り道で行方不明になりました。 同行グループの中にもいなかったので、両親はエルサレムまで引き返しました。 探し回って三日後、イエス様が宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました(41~46節)。 3日間も行方不明では、事件や事故に巻き込まれたのではないかと心配します。 今のようにSNSがあったら呼び掛けたことでしょう。しかし、見つかったかどうかはわかりないと思うのです。 私たちの力の限界、テクノロジーの限界は、今日でもなおあります。 もっとも、この出来事は神の御手のうちにありました。「自分の父の家にいる」とイエス様が言われた通り、神の守りほど確かなものはありません。 同じ神の守りを、今日も私たちはいただいています。 祈り:神様、何でもコンピューターや検索、SNSに頼りがちな私たちです。しかし、あなたの守り以上に頼みにすることがありませんように。じっとあなたの御前に静まり、黙想する時間のじゃまにならないよう、スマホやメディアとの付き合い方を教えてください。台風の被害や影響を受けた地域の教会を励ましてください。私たちも数年前の被害とその後の主のみわざを思い起こし、記念し感謝したいです。アーメン