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マタイ14

「それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。」「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」マタイ14:13, 23 バプテスマのヨハネが殺されたことを知ったイエス様は、ひとりの時間を持とうとされました。父の神の前に祈り思いを注ぎ出すと共に、悲しむ時が必要だと思われたのかもしれません。 しかし、群衆は追ってきました。イエス様は邪魔だと追い払うどころか、「彼らを深くあわれんで(14節)」、癒しや五千人に食物を与える奇跡をなさいました。 その後、再び一人になる時間を持たれたのでした。 疲れた時に限って、大切な相談や用事が入る経験はありませんか。 私たちの肉体は有限です。不必要なことにはノーということが大切です。 しかし、神様の促しを感じるなら、それに従うことも時に必要です。みこころなら、神様は力を与えてくださいます。 それらを見分ける霊的な洞察力が、特に暑いこの夏、日々神様から与えられますように。 祈り:神様、あなたの深いあわれみと知恵に感謝します。今日、私が何を選びとることがあなたの御思いでしょうか。教えてください。祈りによって必要なことに焦点を定め、他の人っがもっと上手にできることにはノーと言うことができますよう、導いてください。アーメン

マタイ13

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」マタイ13:44 デイキャンプが明後日になりました。ある方が、「子どもたちのために、ここまで多くの方が祈り関わっておられるのですね」と言ってくださいました。 当日の実働はさておき、多くの方が子どもたちを祈りに覚えているということが、キャンプの醍醐味だと思います。 それは、子どもたちに天の御国を伝えたいからです。 「畑に隠された宝」のように、天の御国はすぐそこにあるのに置き去りです。 「ここだよ」と紹介してくれる人がなかなかいないからです。 一度紹介されれば、それを掘り出すか放置するかは紹介された側の責任です。 子どもたちに紹介する機会を持てるのは大きな喜びです。 もちろん、教会での楽しい思い出は心に一生残ります。今すぐでなくても、必ず芽を出すと信じます。 ぜひ続けてお祈りください。 祈り:神様、天の御国の価値が私たち自身にももっとわかるようにしてください。デイキャンプや、各教会、団体で行われる夏のイベントに聖霊の働きがあり、祝福がありますように。子どもたちにケガなく、楽しく、キリストの臨在が感じられる一日となりますように。アーメン

マタイ12

「人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」マタイ12:12 パリサイ人たちは、聖書以外にもたくさんの律法を定め、「あれはだめ、これはだめ」と教えていました。 安息日には労働をしてはならないという教えは、今日でもユダヤ教徒が守っています(エレベーターのボタンを押すのも「労働」なので、安息日には各階停止の自動運転になります)。 空腹を満たすために穂を摘むのもだめ、病をいやすのもだめだというのはおかしい、とイエス様はおっしゃいました。 なぜなら、イエスが神ご自身であるのに、彼らが神を礼拝する目的と手段を取り違え、逆にしていたからです。 笑い話のようですが、自分自身や教会の中にも同じことがないか、考えさせられます。 自分の好みやこだわりが律法になっていないか、自問すると思い当たります。 神があがめられ、神を喜べるなら、ほとんどのことは二の次、三の次だと自分の心に言い聞かせています。 祈り:神様、私たちの無用なこだわりを許してください。肉から出てくる_____の思いを認めます。それらが聖書の原則に優先することがないよう、助けてください。家庭でも教会でも、こだわりより主の愛を選びとれますように。アーメン

マタイ11

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28 ヨハネの弟子たちとのやり取り、そして悔い改めない町々への叱責のあと、イエス様は祈られます。 「父よ、あなたをほめたたえます。」「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに表してくださいました(25節)」。 イエス様は活躍する人、うまくいっている人だけのための方ではありません。 むしろ「疲れた人、重荷を負っている人」に目を留めて招き、休ませてくださる方です。 それはイエス様ご自身が「心が柔和でへりくだっているから」です。私たちはイエス様から学び「たましいに安らぎを得」るのです(29節)。 今日、このお方のもとに安らぎましょう。 祈り:神様、連日の暑さと心にかかることごとの中、疲れを覚えています。イエス様のもとに憩わせてください。体調を崩している___さん、____さんにいやしがありますように。アーメン

マタイ10

「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」マタイ10:31 教会の庭に、最近茶色い鳥がやってきます。雀よりは少し大きく、チュルチュルとかわいい声で一生懸命鳴きます。 名前も知らなくて、「ミソサザイ」かと思ったらどうやら「カヤクグリ」?のようです。 キリストの弟子となった時、様々な困難に直面することがあります。中でも辛いのが、信仰や福音ゆえにばかにされたり、拒絶されたりすることです。 謙遜はよいものですが、、自己肯定感まで下がる必要はありません。 なぜなら、神の目には隠れているものはなく、私たちには雀より価値があるからです。 たとえ名前も知らないような地味な鳥であっても、神様は生かし、養っておられます。 私たちのことを忘れることは決してありません。 祈り:神様、あなたの目に価値あるものとして扱ってくださり感謝します。健康的な自己肯定感を養ってください。教会の近所や一人一人の地域で人生に絶望している人のところに、永遠のいのちと希望の福音を届けさせてください。アーメン

マタイ9

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、063弱り果てて倒れていたからである。」マタイ9: 中風の人のいやし、マタイの召し、パリサイ人との対決、皮袋のたとえ、会堂司の娘の生き返り、長血の女性のいやし、目の見えない人のいやし、悪霊追い出し、働き手が足りないこと... 今日も1章の中に目まぐるしいほど多くの内容がつまっています。終わりまで読むと、前半に何が書かれていたか忘れるほどです。 イエス様のなさったわざが豊かで、マタイが聖霊に導かれて書き留めたからです。 もっとも、私たちの一日もアップダウンの繰り返しかもしれません。 朝には思ってもみなかったことが昼に起こり、夜には感情が逆転し、寝るときには朝どんな気持ちだったかを忘れています。時には、話した言葉さえ忘れています。 イエス様はどんなに多忙で疲れていても、「群衆を見て深くあわれまれ」ました。それだけでも、この方が人間であると同時に神でもあることに気づくと思います。私のように自己中心ではなかった。この地上に来られた神の目的に一貫して立っておられたのでした。 祈り:神様、私の自己中心的な思いをゆるしてください。一日をふりかえると、あなたの助けなしには進めません。最近話した___さん、____さん、そして教会の___さんへの配慮のなさをゆるしてください。あなたの愛とあわれみでおおってください。アーメン

マタイ8

「すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。」マタイ8:34 ツァラアトの人、百人隊長のしもべ、ぺテロの姑、その他の人の病気を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められたイエス様。 ところが、ガダラ人の土地では、追い出された悪霊が豚の群れに入り、群れが湖になだれ込んで死にました。豚を飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、一部始終を町の人に知らせました。 あまりにも驚いて怖くなったのでしょうか。町中の人はイエスに会いに来たにもかかわらず、癒しや解放を求めませんでした。どうか立ち去ってほしいと「懇願した」のでした。 ばかげているでしょうか? しかし、今日でも福音に対して同じような反応があります。イエス様が十字架にかかってくださったのに、「立ち去ってください」という反応があります。 また私たち自身には「ここはイエス様は結構です」とお断りしている部分がないでしょうか。どんなタイミングで、どこにイエス様が来られても、喜んでお迎えできるでyそうか。 祈り:神様、私の心の奥深くまで探ってください。 イエス様の福音を最近聞いた___さん、____さんが、心の扉を開くことができますように。アーメン

マタイ7

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」マタイ7:12 まもなくパリオリンピックです。漫然と見るだけでなく、祈りの機会として与えられていることに感謝します。 「ラブ・フランス(Love France)」 https://www.france1million.world/ja/prayer-guide/ など、多くのクリスチャン団体が祈りの課題や現地での働きを行っています。 互いに批判したりあらを探したりするのは簡単です。 しかし、イエス様は 「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです(1~2節)」 と言われました。 そして、 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です(12節)」 と教えてくださいました。 祈り祈られることは、私たちが愛を示すよい方法です。神様のもとに問題を持っていき、私たちの思いを越えた働きに、共に期待することだからです。 祈り:神様、さばくのではなく祈りあう心を与えてください。オリンピックには、教会の近隣出身の代表選手たちも参加します。地域に建てられている教会として、覚えて祈ります。彼らと家族に神様の愛が届き、やがて主の愛の使節として用いられますように。アーメン

マタイ6

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6:33  主の祈りが教えられ、偽善が戒められ、宝のあるところに心があることや、空の鳥さえ神が養っておられることが示されます。 そして、「神の国と神の義を求めなさい」と続きます。 なぜなら、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられ」るからです。 単純なことですが、この単純なことを信じるのは案外難しいです。 「明日のことまで心配しなくてよい」と言われる主のことばを、自分自身への個人的な語りかけとして聞くことができるでしょうか。 祈り;神様、私の信仰を強めてください。あなたが私に語っておられることばに耳を傾けることができますように。アーメン

マタイ5

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5:44 「八つの幸いな態度(3~10節) 」や「地の塩、世の光(13-15節)」の有名な内容を含む章です。福音書にはよくあることですが、その密度の濃さに、一度に読みきるのが心残りなほどです。 様々な教えがぎゅっとつまっていますが、すべてを守ることができる人はいるのだろうかと思ってしまいます。 そして、イエス・キリストだけがこれを完全に守り歩まれました。彼の生き方は、最後までご自身の教えにかなったものでした。 十字架の上でさえ、自分を死刑にした人たちのために祈られたのでした。 私たちの頼る方、見上げる方はこのお方以外にはありません。 祈り:神様、私たちに生きる指針を与えてくださり感謝します。何より、私たちが主とあがめる方が私たちを愛してくださることに感謝します。あなたの教えを受け取り、慰めと励ましを頂いて今日も歩みます。今身体の弱さを覚え、また心が痛んでいる___さん、___さんにあなたが豊かに語りかけてください。アーメン

マタイ4

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」マタイ4:19 イエス様は漁師のぺテロとアンデレに「人間をとる漁師にしてあげよう」と招かれました。すると彼らはすぐに網を捨てて従いました(20節)。 漁のプロであった彼らに、魚をとることよりも素晴らしいことに思えたのがイエス様の弟子となることでした。 同じように、多くの伝道者やクリスチャンが、何にもかえがたいこととしてイエス様の弟子となることを選びます。逃げではなく、イエス様に従う以上に素晴らしいことはないという積極的な動機によってです。 そして、イエス様に従う中で、それまでの仕事や経験が思いがけない形で主にあって用いられます。 ガリラヤ湖を舟で移動するときやイエス様が舟から岸へメッセージを語る時、漁で舟を出した経験が用いられました。3年間の移動生活には、漁で培った体力が必要だったでしょう。 今でも、謙遜な人の経験や専門が、教会を建て上げるために用いられています。 祈り:神様、主に従うことを選んだ人に導きと備えを与えてくださることに感謝します。謙遜に主に仕えさせてください。今日の礼拝と洗礼式を心から感謝します。アーメン

マタイ3

「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」マタイ3:11 バプテスマのヨハネはエリサペツの子であり、イエスの親戚でもありました。 年齢が近いこともあり、互いによく知っていたかもしれません。 バプテスマのヨハネが偉いところは、自分の分をわきまえていたことです。 彼はイエスがどのような方(神の子)かを知っていて「私の後に来られる方は私よりも力のある方です」と明言しました。 同い年の親戚、級友、自分と似た環境の人とは、つい自分と比較しがちです。 しかし、それぞれに神のご計画があることを受け取ると、比較に意味のないことがわかります。 バプテスマのヨハネには、ダビデに対するヨナタンのような麗しい人格を感じます。 祈り:神様、私を比較のわなから解放してください。人を表面的な才能や賜物で判断することがないように助けてください。あなたが私に与えてくださった多くの恵みに感謝します。主の栄光のために用いさせてください。アーメン

マタイ2

「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことが成就するためであった。」マタイ2:14~15 博士たちが来て贈り物をささげて礼拝した...という平和な時から、緊急事態への 変化を記しています。家族はヘロデ王の殺戮計画を逃れるため、エジプトに避難しなければなりませんでした。 しかし、それは預言が成就するためには必要でした。神の大きなご計画のうちにイエスと家族は守られました。 そして、博士たちの贈り物は、エジプトでの避難生活を支えただろうとも言われています。 私たちも、「なぜ」と思うような状況の変化にうろたえ戸惑うことがあります。 すべてが神の御手で備えられている、と信じることができうでしょうか。 神のご計画のうちにあるという信仰と希望が与えられますように。 祈り:神様、なぜこんな状況にと思う中にも、あなたの完全な計画が働いていると信じます。私の小さい理解ではわからないことをゆだねる信仰を与えてください。わたしの歩み、教会の歩みが主によって導かれていくことに安らぎます。アーメン

マタイ1

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」マタイ1:17 昨日まで読んでいた詩篇の主な作者、ダビデの名前が今日も出てきました! 1節~17節には旧約聖書の多くの名前が出てきます。まるで卒業アルバムを開くように、親しく見慣れた名前、あまり知らない名前が並んでいます。 脈々と系図がつながり、約束どおりダビデの子孫としてキリストが地上に人として生まれたことを記しています。 マタイは、神であるイエス・キリスト、同時に人でもあったということを証明しつつ、キリストの福音を伝えようとしています。 祈り:神様、イエス・キリストが神として、同時に人として約束どおり来てくださったことを感謝します。私も、聖書の約束に信頼し待ち望む者となれますように。長年祈りの答えを待っている____さん、____さんに、今日も主への希望と信仰が豊かに与えられますように。アーメン

詩篇150

「息のあるものはみな  主をほめたたえよ。  ハレルヤ。」詩篇150:6 ヘンデルのハレルヤコーラスのクライマックスが浮かんできます。 聴衆が起立して神様をほめたたえる「ハレルヤ、主は王の王」という歌詞を味わいます。 天国では、どんなハレルヤコーラスがささげられるのでしょうか。 そんなことを思いながら、ふと天国まで待つ必要はないということに気づかされます。 すでに神の国は私たちのただ中にあり(ルカ17:21)、天国の前味をすでに味わっているのです。  だからこの地上で、今日この瞬間も、息のあるもの(生かされているもの)として主をほめたたえることができます。 聖書の詩篇も、黙示録も、神様を賛美する言葉でしめくくられていることも、私たちを賛美へと励ましてくれます。 祈り:神様、私たちにとって幸いなのは、あなたを今ほめたたえられることです。すでにこの地上で、あなたを礼拝し賛美しと、天国と同じことができる幸いにもっと着目させてください。小さな日々の出来事の中に、あなたの恵みを発見し、受け取り、感謝し、分かち合う者になれますように。アーメン *明日からは新約聖書に入ります。