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8月, 2024の投稿を表示しています

ルカ1

「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。」ルカ1:3~4 日記をつけたことがありますか? 日々献立や一日の出来事を書き留めていた一主婦が、夫のアリバイを立証して冤罪から救ったというドラマの場面を見たことがあります。 ルカも、初めからこつこつと調べ、書き表していきました。 直接的には福音を聞いたテオフィロがよく理解するためでした。 そして、聖霊が導いて書いたルカの福音書は、主が働かれて「福音書」として世界中の人に2000年にわたってキリストの福音を示しています。 私たちの平凡な日々の歩みの中にも、主があかしとして書き留めてほしいということがちりばめられています。今日、どんなことを発見するでしょうか。 祈り:神様、キリストの愛がよくわかるようにと、福音書を与えてくださり感謝します。私の日々の歩みも、あなたの前に覚えられていることを受け取ります。恵みを忘れず、あかしとできるよう導いてください。アーメン

マルコ16

「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」マルコ16:8 あまりにも予想外のことに驚くと、腰がぬけたり体が固まってしまったりします。 体験をなかったことにしようというバイアスが働くことも、現在知られています。 マルコの福音書が女性たちのとっさの反応をこのように書いたのは、不信仰を責めようとしたのではありません。 かえって、復活が事実であることが裏付けられています。 復活の主にたしかに出会ったからこそ、そのときに人間の自然な反応があったのです。 当時生きていたなら、私もきっと同じようになったでしょう。 その後、補遺にあるようなことが続いたのでしょう。 祈り:神様、復活してくださったことを、人間の弱さゆえの反応からも示してくださり感謝します。 九州をはじめ、台風のひどい被害で頭が真っ白になっている人に、あなたの励ましと回復がありますように。イエス・キリストが、すべての痛みや重荷を背負ってくださることに安息できますように。アーメン

マルコ15

「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。」マルコ15:47 主であり神であるイエス・キリストが十字架にかかるという、極めて重大な世界の歴史の転換点が 「それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた(24節)」 と記述されています。ローマ兵にとっては、日常の雑務のようでした。確かに、多くの人にとっては、日常の出来事、見せしめの一場面でした。 しかし、主を救い主と信じる人にとっては、その重みと価値、重要性がよくわかります。 マグダラのマリアやヨセの母マリアにとってもそうでした。このあとどうなるかわからないけれど、どこに納められるか、よく見ていました。 よく見ていた彼女たちには、その場所が空っぽになり、キリストが確かによみがえられたこともよくわかりました。 祈り:神様、私たちが霊的に重要なことを見過ごさないように助けてください。日常の中で、些細な物事の中にも、あなたの恵みや語りかけに気づく視点を与えてください。台風の通過する地域をお守りください。台風にも勝る、聖霊の風が日本に吹きますように。アーメン

マルコ14

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」マルコ14:9 香油を塗った女性も、イエス様を売ったユダも、失敗したぺテロも、聖書の記事として今日の私たちに届いています。 香油を塗ったのは、エルサレム入城から十字架に至る週の、ほんのひと時です。 逮捕や策略に比べたら、見落としてしまいそうな場面です。 しかし、主はこの女性を喜び、埋葬に備えて「良いことをしてくれた」と言われました。 私たちのしていることは、人には目立たないことかもしれません。しかし、私たちの心を主は見ていてくださいます。 かつて教会(他府県の)に通っていたのに、この世の惑わしや歪んだ常識の影響を受けてしまった人の話を人づてに聞きました。周囲の人は嘆き悲しみ、立ち直れるように祈り続けています。 巧妙な詐欺の被害にもさらされる現代です。 鳩のように素直で、蛇のようにさとい心で、今日も信仰の歩みができますように。 祈り:神様、私たちに気前よくささげる勇気と共に、見分ける知恵を与えてください。一人一人を詐欺や犯罪の被害からお守りください。愛する方々を聖霊に満たし、鋭い霊的洞察力を与えてください。アーメン

マルコ13

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」マルコ13:31 台風の動きが気になります。 2018年に教会の屋根が台風で飛ばされてからは、台風に備えることの大切さをいっそう感じるようになりました。 しかし、どんなに備えても不足の事態はやってきます。災害しかり、事故しかりです。 私たちの想像の及ばないことも数々あります。 イエス様はやがて「天地は消え去ります」と言われました。想像し難いけれど、その日があるということです。 けれども、その日は絶望で終わりません。信じる人には希望があります。 イエス様は「わたしのことばは決して消え去ることがありません」と続けてくださいました。 個人的に、この秋黙示録をゆっくり味わいたいと思います。それは怖い預言ではなく、希望のことばだと言われているからです。主イエスに頼る者には、どんな時にも希望があるということを確認し、確信を持ちたいのです。 聖書には、そうした希望の約束が満ち満ちています。食わず嫌いでなく、通読する恵みをさらに味わいたいと願います。 祈り:神様、台風や地震で不安な心に平安を与えてください。キリストにある希望を握ります。さらにみことばに親しむことができますように。台風の進路にある地域の人々や教会をお守りください。アーメン

マルコ12

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」マルコ12:43 レプタ銅貨2枚を献金箱に入れた貧しいやもめを見て、イエス様は「だれよりも多くを投げ入れた」とおっしゃいました。それは、皆があり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを投げ入れたからでした(44節)。 ここに、見える世界と見えない世t界の価値基準を見ることができます。 私たちが日頃見聞きするのは、見える収入や、それに応じた暮らし向きです。 しかし、教会ではそうではありません。 見える量では量れないことがあります。 たとえば、お金にかかわらず心を尽くして奉仕している人は、主に多くをささげているといえます。 祈り:神様、見えないものに目を向ける者となれますように。私を見えるもので比較するわなから解放してください。全国の教会で仕える伝道者、牧師の妻や家族、奉仕者たちをあなたが愛し、格別に祝福してください。アーメン

マルコ11

「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」マルコ11:25 信仰を持って祈ることと同時に、心を整えること、自分の中に苦い思いがないようにすることもイエス様は教えてくださいました。 祭司長や律法学者たちにも、イエス様は苦い思いを持たれなかったのでした。父のみこころにかなわないことは厳しく戒められましたが、恨んでいるわけではありませんでした。 10日ほど前から歯痛に悩まされています。虫歯ではなく、埋伏した親知らずが奥歯を圧迫しているようです。 薬で炎症がおさまるのを待っていますが、気分がすっきりせず、ついつい考え方も言葉も否定的になってしまいます。 天の父が赦してくださったことの大きさを思い、恨み言を悔い改めつつ過ごす週末です。 祈り:神様、あなたの赦しと愛を感謝します。「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」という主の祈りを覚えます。 あなたが赦してくださったゆえに、他者のことを赦す力と思いを与えてください。 台風に備える教会一つ一つに、守りと平安を与えてください。アーメン

マルコ10

「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。『あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。』」マルコ10:21 マルコの福音書では、イエス様の表情が見えてくるようです。この青年に欠けていることを教える時も、怒って言われたのではありませんでした。「彼を見つめ、いつくしんで」教えてくださったのでした。 ヤコブとヨハネが的外れな願いをするときも、大声で叫ぶバルティマイにも、「わたしに何をしてほしいのですか」(36、51節)と言ってくださいました。 イエス様に何をしてほしいのか、みこころなのか単なる欲望なのか。わからない時には祈って申し上げたらよいのだとわかります。 あわれみに満ちた、イエス様のまなざしの元に近づける恵みに感謝します。 祈り:神様、私の願いは________________です。あなたのみこころにかなうなら、どうぞそのようにしてください。別のことがみこころでしたら、私をあわれみ、それを受け入れることができるように整えてください。アーメン

マルコ9

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」マルコ9:41 キリストに属する弟子に親切にしてくれる人のことを、イエス様はこのように言われました。 この聖句を思うと、温かい気持ちになります。 礼拝に毎週集っている人には親族、友人、近所の人がいます。そして、快く送り出してくれたり、反対しなかったり、洗礼を受けるのを認めてくれたりしています。 その人たちは、「キリストに属する者に一杯の水を飲ませてくれる人」だといえます。 教会に関連して、親切な人、好意者と呼ばれる人たちが何百人と与えられています。 祈り:神様、教会に集う人の背後に、多くのキリストへの好意者がいることを覚えます。___さんの家族、___さんの友人、___さんの隣家の人たちを祝福してください。私たちが会ったことはなくても、あなたはその人たちをよくご存知です。その人たちも、救い主キリストと出会うことができますように。アーメン

マルコ8

「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」マルコ8:33 大変厳しいイエス様のおことばです。少し前には「あなたはキリストです」というぺテロの返答を喜んでおられたのに、それとは雰囲気が違います。 それは、「神のこと」でなく「人のこと」のみ思っていることを戒められたのです。 神から目を離そうとするもの、人の思いだけで物事を運ぼうとするものは、神から出たものではありません。 ぺテロの行為を通してサタンが惑わそうとしたものの、もちろん「ぺテロ=サタン」ではありません。 私たちも同じです。人の心に働きかけ、神に喜ばれないものを広げようとする悪の力を憎むべきであって、ある人を憎むのではないということを覚えます。 もし悪の力に支配されている人がいたら、神が願われる本来の姿に帰ってくることを信じ、祈り続けたいのです。 そして、私たち自身が悪に立ち向かう武具はすでに与えられていることにも感謝します(エペソ6章)。 祈り:神様、悪の力と誘惑は巧妙です。私の力でなく、あなたの力によって立ち向かいます。今がんじがらめになっている人がキリストに出会い、御名の力と権威で解放を体験できますように。私たちはその人を主の愛でとりなし祈り続けたいです。アーメン

マルコ7

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に『エパタ』、すなわち『開け』と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。」マルコ7:34~35 以前にも書いたかもしれません。イスラエルに行った時、ガイドの方がレストランの手配をしておられました。電話をかけて「エパタ」と尋ねられました。 「レストランが空いているか」ということだったと思うのですが、聖書の原文がそのまま使われていて、思わず聖書の世界が浮き出てきたようでした。 でも考えてみれば、私たちが聖書を読む時、その世界は現実です。 みことばは生きて働き、聖書の世界と同じ主が今日も生きておられます。 癒し主であり、人を偏り見ない方が私たちの主、イエス・キリストです。 祈り:神様、感謝します。聖書に出てくるのと同じまなざしで、イエス様が今日も私たちを見ておられることを覚えます。癒しが必要な___さん、___さん、主の声を求めている___さん、____さんに、あなたがお語りくださり、癒しと解放を与えてください。アーメン

マルコ6

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」マルコ6:50 あれほど素晴らしい奇跡をなさったイエス様を幽霊と間違え、おびえてしまうとは。 でもイエス様は、すぐに声をかけてくださいます。 助けに来られたイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。 私たちも自分の常識や快適さ(コンフォートゾーン)と異なる主の導きやみこころを見るとき、おびえてしまいます。 しかし、イエス様は今日も私たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださいます。 主が導かれる所に出ていく一歩、その信仰を主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたのみわざを経験したのに、一歩踏み出すことに恐れを感じます。どうか助けてください。教会の歩み、私自身の歩みが、主にあって一歩一歩導かれるという信仰を強めてください。頑固な思い込みから解放してください。アーメン

マルコ5

「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」マルコ5:34 イエス様は癒しをなさる時、その人の信仰を確認されました。 昨日の礼拝でも、勝利の3つの材料のうち「みことば」と「御名」は大丈夫、私たちに問われるのは「信仰」だと聞きました。 信仰が与えられるように、信仰を強めてください、と今週も祈りつつ歩みましょう。 祈り:神様、私たちひとりひとりの信仰を確認してくださり感謝します。私たちの信仰を強めてください。教会が信仰に立つことができるよう、導いてください。アーメン

マルコ4

「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。』」マルコ4:26~27 マルコの福音書にだけ取り上げられているたとえです。 この後、 「地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです」(28~29説)と続きます。 ほっとします。宣教はもちろんベストを尽くし、祈り熱心に励みます。 しかし同時に、それはノルマではなく人の功績でもありません。 私たちは自分の分を果たしたら、あとは聖霊の働きにゆだねるように召されています。 数ではなく、そこに注がれた祈りと主への愛を、主はよくわかってくださいます。 祈り:神様、教会の規模の大小や数にこだわらなくてよいとわかりました。置かれているところに感謝し、そこで主を愛し仕える者とさせてください。比較のわなから解放してください。私に与えられた分を、聖霊様の助けにより喜んで果たすことができますように。アーメン

マルコ3

「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」マルコ3:35 イエス様はご自身の家族をないがしろにされたわけではありません。が、霊的なつながりが真実であることを述べられました。 今の私たちも、信仰者のつながりは家族のようです。 遠慮がないだけに、ぶつかることがあるかもしれません。それは、互いが家族のように本音で話しているからです。その中から、自分の至らなさを示され、キリストの愛で受け入れ合うことを学び、共に神様を見上げます。 祈り:神様、信仰の家族を感謝します。教会や交わりの中で、さまざまな経験や学びを与えられていることを覚えます。共に祈りつつ、あなたのみこころを選びとることができますように。アーメン

マルコ2

「これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』」マルコ2:17 イエス様は、よくできた人や気の合う人を選んで招かれたのではありませんでした。 かえって「罪人」を招くために来られた、と言われました。 病気の人や問題をかかえた人をあわれみ癒しました。 さらには律法学者や祭司たちにも、忍耐強く接し続けられました(彼らは一方的に陰口や批判を続けましたが)。 教会にもさまざまな人がいます。気の合う人もいれば、そうでない人もいます。教会以外の場所では親しくならなかっただろうという人もいます。 それは、イエス様が招かれたからです。 自分を見ても、よく招かれたなあと思います。 私たちがどんなに不完全でも、イエス様はあきらめず見捨てずにいてくださいます。 そのことを感謝しましょう。 祈り:神様、あなたのあわれみと招きを感謝します。教会の中に、個性や環境が全く違う人を呼ばれ招かれました。それは、教会がさまざまな人に福音を届けるためです。 違いを喜び、聖霊によって一致し、共に主を愛し、共に礼拝できる恵みに目をとめることができますように。アーメン

マルコ1

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」マルコ1:1 マルコの福音書は、マタイとは少し趣が異なります。誕生についてはふれられず、系図もありません。 1章ではバプテスマのヨハネから洗礼を受け、公生涯のことが次々と記されます。 そして、一つ一つの場面がいきいきと、多くの会話を含んで記述されています。 たとえて言えば、映画の1シーンが重ねられているトレイラー(予告に用いる動画)のようです。 マルコの福音書をじっくり読むことで、イエス様のご人格や人となりを、より鮮明に学ぶことができます。 もっとも、ただの登場人物ではありません。この福音書は「神の子、イエス・キリストの福音」を示すために書かれました。 「このイエス様なら間違いはない」という確信が、読みながらますます与えられていくと期待します。 祈り:神様、イエス・キリストのやさしさとあわれみ、正しさと強さをもっと知り、この方が神の子であったこと、福音が確かであることを受け取らせてください。 そして、聖書入門にもよく用いられるマルコの福音書を、___さんと分かち合う機会が与えられますよう導いてください。アーメン

マタイ28

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』」マタイ28:18~20 イエス様の声がもう一度聞けるとは!復活のキリストに出会った時、弟子たちの誰もが感激したことでしょう。 イエス様はご自身が天地ですべての権威を持っておられること、世の終わりまでいつもともにおられることを保証してくださいました。 だから、牧師や伝道師に限らず、信仰者は「行って、あらゆる国の人々を弟子と」するよう召されています。バプテスマに導くこと、キリストが命じた「すべてのことを守るように教え」ることは、皆にゆだねられた働きです。 そして、それは律法ではなく、愛が動機となっての宣教です。弟子たちが感激したように、イエス様と出会って人生が変えられた感激が私たちの原動力です。 祈り:神様、あなたの愛と恵みが私の動機となりますように。私の行動や奉仕の動機を探ってください。存在不安や自意識、恥意識から解放し、自由を得させてくださった主に感謝します。この素晴らしさを分かち合うことができますように。アーメン

マタイ27

「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。『この方は本当に神の子であった。』」マタイ27:54 十字架刑の暗い情景です。死ぬしかない罪人を見張る兵士たち、見物する野次馬たち。 人の理解では、嘆きと失望でしかない十字架でした。 しかし、神の驚くべき計画は、十字架でキリストが死んで終わりではありませんでした。 3日後の復活までにも、 ・百人隊長や見張りの者たちが、イエスが神の子だったと告白します。 ・アリマタヤのヨセフが、イエスのからだの下げ渡しを願い出て、弟子であることを表明します。 ・女性たちは最後まで見届けます。 絶望の中にも希望の光が全く消えたわけでないことが、行間ににじんでいます。 今日も、神を信じる者が全くの絶望に置かれることはありません。万事休すに思える状況の中にも、キリストにある希望と光の可能性があります。 その細い光を、聖霊によって見いだすことができますように。 祈り:神様、十字架の埋葬の瞬間でさえ、あなたは働かれ、みわざの完成が着々と近づいていたことを覚えます。見えるものだけにすべて左右されることがないよう、私の霊の目を開いてください。地震への注意情報が出て落ち着かない中ですが、心をお守りください。兄弟姉妹の、帰省や旅行での交わりを祝福してください。アーメン

マタイ26

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」」マタイ26:13 わずか数時間のうちに、状況が大きく動きます。食事のあと祈りに行き、逮捕、裁判とあっという間のことです。 イエス様はすべてご存知でした。それでも、最後まで冷静に父のみこころに従われました。 緊急の時なのに、油を塗った女性の行為も喜んでくださいました。2千年たっても覚えられているとは、本人も思わなかったでしょう。しかし、霊的には大きなことでした。 私たちにとっても、イエス様への姿勢、ささげ方、愛の表し方として見本を示してくれているようです。 神様に祈り、促されることがあるなら、純粋に幼子のように従うというチャレンジを与えてくれます。 祈り:神様、あなたに喜ばれる歩みに導いてください。今祈り心で静まります。 _____のこと、______のことが心に浮かびます。 今日私にあなたが望まれることは何でしょうか。みこころを教えてください。従う心を与えてください。アーメン

マタイ25

「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」マタイ25:13 地震の注意報を受けて、水が売り切れだそうです。 なぜ、あわてて買いに走らないといけないのでしょう。あらかじめ備えていなかったからでしょうか。あるいは、不安からもっと用意しなければという気持ちになるのでしょうか。 まだ断水していないのだから、朝ごとに水道の水をくみおいて日々使うこともできますね。 必要な人の手に行き渡るよう、パニックを防ぐ行動を心がけたいと自戒しています。 ともしびの油の話も、いつかわからなくても、普段から心を整え備えるという点で少し似ています。 油の用意ができていた娘たちはあわてませんでした。 しかし油を持って来なかった娘たちは、油を買いに行きました。ところがその間に花婿が来てしまいます。 「目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」と教えられています。 これはイエス・キリストの再臨のたとえです。 地震に備えることは大切です。 そして、イエス様の再臨に心を備えることも、永遠にかかわるだけにもっと大切です。 祈り:神様、いつ来るかわからない地震に備える人たちに、必要なものが行き届きますように。そして、イエス様がいつ来られてもよいように、私たちの霊と心を整え、備えさせてください。愛する人たちにも永遠のいのちの福音を、自然な形でシェアできますように。アーメン

マタイ24

「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」マタイ24:14 世の終わりのしるしについて、イエス様が語られます。 恐ろしく思える描写があり(二人のうち一人が残される、とか)、幼い頃には文字通り2分の1の確率かと思い震え上がりました。 でも心配はいりません。 聖書の別の箇所に繰り返し書かれているように、イエス様を信じる人は必ず救われます。 そして、全世界のすべての民族に福音が伝えられてから終わりが来る、という約束が示されています。不公平はないし、知らなかったという言い訳もできないということです。 南海トラフ地震の注意喚起情報が出され、何となく落ち着かない日々です。 何があっても、キリストは変わらず、揺るがない土台だということを改めて思いめぐらす機会だと言えます。 祈り:神様、あなたには不公平がなく、世の終わりがいつかも最善の時を定めておられることを信じます。先日の地震で被害を受けた方々、警戒体制で備えている役所や消防、警察の人たち、互いに声をかけあう人たちを励ましてください。 情報弱者とよばれる外国人、病気や障がいのある人をお守りください。 私自身も、心が平安で過ごせますように。アーメン

マタイ23

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」マタイ23:23 律法学者やパリサイ人に対して、イエス様の厳しい叱責が続きます。 律法を形ばかり守るのではなく、その中身が大切だと言われます。 パリサイ人たちだけではありません。 私自身も、自分を省みると、心が正義、あわれみ、誠実からほど遠いことに気づきます。守ろうと思っても、弱さや至らなさが出てしまいます。 パウロが「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(ローマ7:24)」と言ったとおりです。 キリストがいなければみじめなままだったことを思う時、そのあわれみに心から感謝します。 祈り: 「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私 は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ7:25~8:1)」 イエス様、私も律法学者やパリサイ人と同じ性質の者です。あなたのあわれみにすがり救われました。いつもこの原点に戻り、感謝とへりくだりを持つことができますように。あなたが血の代価を払ってくださったことに感謝します。アーメン

マタイ22

イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。」マタイ22:37~38 イエス様が学者たちを驚嘆させる、そんなお答えが続きます。 その中で、旧約聖書のすべてを凝縮した戒めを二つ教えてくださいました。 その一つ目が「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。 私たちの精一杯、ベストを尽くして主を愛することを、主は喜んでくださいます。 「私は感情的で」「私は頭でっかちで」と福音理解の不十分さを嘆いてくよくよするよりは、豊かな感情や知性が与えられていることを感謝しましょう! それを主を愛するために、今日も用いていきましょう。 祈り:神様、私に与えられたものをもってあなたを愛します。自分と違う持ち味の人を批判せず、比較せず、互いに喜べるよう助けてください。 それぞれに与えられた賜物を、主のために用いさせてください。アーメン

マタイ21

「群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。『ホサナ、ダビデの子に。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。 ホサナ、いと高き所に。』」マタイ21:9 イエス様を歓迎した群衆たち。この後1週間もたたないうちに、「十字架につけろ」との扇動に迎合してしまいます。 「何と愚かな心変わりを」と思います。 しかし、私たちの心も同じようにふわふわと定まらず、周りのうわさや批判に流されがちだと気づきます。 若い年代では、ピア・プレッシャー(友人関係を壊したくないという思い)がより強いです。彼らの信仰が守られ、イエス・キリストを信じることは「かっこいい!」という確信が与えられますように。 祈り:神様、教会に今来ているユース、以前来ていたユースの____さん、____さんたちを励ましてください。 また、どの年代であっても信仰が守られますように。揺るぎそうになってもイエス様を否むことがないように、教会や兄弟姉妹を汚すことがないように、心を守ってください。アーメン

マタイ20

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」マタイ20:27 聖書には「!?」と思うような逆転の発想、逆説的な教えがあります。 この章だけでも 「後の者が先になり、先の者が後になる(16節)」 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい(27節)」 「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい(28節)」 とイエス様はおっしゃいました。 しかし、この考え方が「!?」ではないと最近わかってきました。 リーダーがチームの後ろから仕える「サーバント・リーダーシップ」が言われるようになりました。聖書の教えの有益さが証明された形です。 イエス様自身が仕える者の姿をとって見本を見せてくださいました。 私たちは、今日誰に、どのような仕え方をすることができるでしょうか。 祈り:神様、聖書を与えてくださり感謝します。イエス様のへりくだった姿にならうことができますように。家族の中、教会の中で、比較ではなく互いに仕え合い、互いを喜ぶことができるよう導いてください。アーメン

マタイ19

「イエスは彼らをじっと見つめて言われた。『それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。』」マタイ19:26 ご両親の財産を管理することになった方が、その大変さを話してくださいました。 不動産や株など多くのものがあると、管理にかかる手間と時間が多く、片手間にはできない。 管理そのものが一つの仕事になる、ということでした。 多くの財産があることは少しうらやましい感じもしますが、だまされたり取引に失敗したりする危険も伴い、神経を使うようです。 その方は、税務署とのやり取りも大変なので、専門家に託しました、とおっしゃっていました。 自分はもっと大切なこと、信仰の歩みと聖書の学びに時間を使いたいということでした。 今日の文脈は、金持ちが救われることの難しさを語ります。 もっとも、金持ちに限らずどんな人も、心に神以上の大事なものがあるなら、救われることは難しいです。 しかし、人にはできないことが神にはできます。聖霊が働く時、人の思いを越えた神のわざが行われます。 祈り:神様、私の力ではできない____さんや____さんの心を開き、イエス様を救い主として受け入れることができますように。聖霊の働かれる時に人が変えられることを感謝します。祈り続ける信仰を与えてください。「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」ということばを信じます。アーメン

マタイ18

「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」 マタイ18:3~4 子どもキャンプの恵みを、重ねて思い返しています。 子どもの心は柔軟です。興味を持ち受け入れることがたやすいので、新しい学びや技術を大人に比べて容易に身につけることができます。 福音も同じです。これまでの歩みや思い込みから「向きを変える」ことがたやすいので、子どものような心の人が天の御国に入ると言われています。 たった1度のキャンプ参加でも、教会に行って福音を聞いたことがあるという経験は、その後の人生にはかりしれない影響を及ぼします。 私たちがまだ知ることのない、神様のご計画に期待します。 同時に、背後の祈りと働きを主はとても喜んでおられます。 「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです(5節)」 と、御国での確証と幸いが書かれています。 祈り:神様、主を愛し子どもたちを愛する一人ひとりを祝福してください。私たちがまだ知らない、主の幸いなご計画が進んでいることを期待し受け取ります。礼拝や洗礼の恵みが、熱波以上に今週も流れあふれますように。アーメン

マタイ17

「イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に「ここからあそこに移れ」と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。』」マタイ17:20 何をもって聖書の「信仰」と言うのだろうか、と考えたことがあります。 自分の思い通りに物事が運ぶことでしょうか?それは希望的観測とか、独りよがりの予想にすぎません。 「信仰」とは、みこころが行われることと、神のご人格そのものへの信頼感と言えると思います。 山に「移れ」と言えば移るとあります。 その山は、自分にとっての邪魔物でしょうか。そういう時もありますが、そうでない時もあります。 むしろ、自分自身の心の中にある障壁を「山」というのかもしれない、と考えさせられます。 祈り:神様、暑い夏で身体も心も弱りがちです。その中で、信仰まで弱ることがないように助けてください。主がよい方であると信頼する心を今日も与えてください。アーメン

マタイ16

「すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」マタイ16:17 16章の主題をひとことで表せば、「聖霊による悟り」だと言えます。 イエス様が霊的な必要すべてを与える方であること、救い主キリストであること、救いのために苦難にあうこと、やがて主の教会が生まれることなど、途方もなく思える事柄を理解するには、聖霊の助けが必要でした。 私たちも、あのこと、このことを自分の常識で判断するのは簡単です。しかし、神様が私たちの理解を越えたご計画を持ち、働かれる方だと悟るには、信仰と聖霊の働きが必要です。 子どもたちに蒔かれた福音の種がどのように芽を出すかも、私たちの想像を越えています。期待し祈りつつ、聖霊に任せることができますように。 祈り:神様、あなたのみわざに期待する信仰を与えてください。キャンプの守りと祝福に感謝します。子どもひとりひとりを祝福し、主ご自身がとらえてください。私の_____のことについても、たゆまずあきらめず、祈り続けることができますように。アーメン

マタイ15

「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」マタイ15:18~19 どきっとするようなイエス様のおことばです。 口で言ったことは、実は心から出て来るのだ、と。 失言とか、口がすべってとかではなく、心が(意識していなくても)話します。 だから、謝る時には言葉じりの問題でなく、その心を謝罪するというのが必要なのだと学びます。 そして、その謝罪を受け入れ、赦しあうのが信仰者の人間関係です。 祈り:神様、私が口から出した言葉、人を傷つけた言葉を悔い改めます。そのときの疲れた心、怒りや腹立ちの心を悔い改めます。相手を癒してください。アーメン