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Iペテロ4

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」Iペテロ4:10 神の賜物は恵みです。その人に能力があるのは、資質を神様が与えてくださり、その人も努力したことの表れです。努力できるというのも賜物かもしれません。 ともあれ、「それぞれが賜物を受けている」と聖書は語ります。各人に与えられた「様々な恵み」の良い管理者であることを主が望まれます。良い使い方とは、賜物によって互いに仕え合うことです。 無理をするのでなく喜んでできること、苦にならないことがあると思います。 そこに賜物が表れているのではないでしょうか。 祈り:神様、前に立つ奉仕だけでなく、私たちが隠れたところで喜んで奉仕することもあなたの栄光を表すことを覚えて感謝します。互いに仕えるために、与えられた恵みの賜物を適切に用いることを教えてください。アーメン

Iペテロ3

「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」Iペテロ3:21 ノアの洪水がバプテスマの型とは! すべてを覆い浸す水の中、箱舟に入って洪水を通り抜け救われた人が8人いました。 同じように、私たちは水に浸され、キリストと共に通り抜けるというバプテスマを受けました。それは信仰のあかしとしてです。 救いは信じた時に与えられますが、神と人との前に誓約としてバプテスマの式を受けます。 そして、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい(15節)」の通り、あかしをする者として整えられていきます。 祈り:神様、旧約時代の様々な事柄を通しても私たちに意味をわからせてくださり、感謝します。 あなたの前に真実に歩めるよう、今日も助けてください。私たちがあかしをする用意ができているように整えてください。アーメン

Iペテロ2

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」Iペテロ2:2 聖書は甘い菓子のように感じられるでしょうか。 そうとは限りませんね。 時にはわかりにくく耳に痛いこともあります。 それでも霊の乳としてのみことばを慕い求めるようにと、この聖句は語ります。 なぜなら、肉体が成長するためには栄養のある食物が必要なように、霊の成長には神の知恵と教えがつまったみことばが必要だからです。 祈り:神様、みことばがよくわかるように助けてください。知的な理解だけでなく霊の目を開いて理解させてください。 霊の乳を慕い求め、成長できますように。アーメン

Iペテロ1

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。Iペテロ1:8 ぺテロの書いた手紙は、ぺテロがイエス様について各地を旅した頃よりずっと成熟した人物になったことがわかります。 同時に、ぺテロの持ち味である熱心さや情熱が、手紙の表現のあちこちに感じられます。 ことばでは表しきれない「栄えに満ちた喜び」に踊る信者の喜びを、彼も共に喜んでいます。 それは安全な幸せの中ではなく、試練の中でそうであったからです。 試練を耐えた信仰は金よりも価値があり、キリストからの報いを受けることができるという永遠の希望が伴います。 祈り:神様、試練はそれだけで終わりではなく、信仰を成長させキリストからの労いがあることに感謝します。今、試練を通っている___さん、___さんに励ましと力を与えてください。私もとりなしの祈りができますように。アーメン

ヤコブ5

 「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」ヤコブ5:16 互いに祈り合うことは、信仰者の特権です。 独りで悔い改めの祈りをすることもできますが、そばで聞いてくれ、共に祈ってくれる友がいることで、悔い改めたこと、また信仰に立って方向転換をしたことが確かになります。 また、誰かを許す祈り、自分の怒りや恨みを手放す祈りを友とすると、決心し慰められる経験をします。 同時に、身体的な癒しにとどまらず、精神的、霊的な癒しが起こります。心が解放され、主に近く進み出る門が開かれたような経験をした方もいるでしょう。 信仰の友の存在に感謝します。 祈り:神様、信仰者の交わりを与えてくださり感謝します。教会で共に集うのも、祈り合うのも、主が与えてくださった恵みです。感謝しつつ、私も他の人のために寄り添い、とりなしの祈りができるように導いてください。アーメン

ヤコブ4

「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブ4:15 これが私たちの日毎の祈りなら素晴らしいと思います。 つい「私たちはこのこと、あるいは、あのことをしよう。だから神様、助けてくださいよ」という祈りをしがちです。 しかし本当は、「主のみこころであれば、私たちは生きる」が祈りの初めです。 今朝もみこころで生かされている。 だからこそ、主が願われるような「このこと」「あのこと」に歩んでいくのだ、という心で歩みたいものです。 祈り:神様、あなたのみこころであれば、今日も私たちは生きて、____のこと、あるいは、____のことをします。導いてください。アーメン

ヤコブ3

「同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。ヤコブ3:5 少し前に、ロサンゼルスの山火事が住宅街に及び、多くの宅地を焼き尽くした災害がありました。 初めは小さな火だったのが、風にあおられてみるみる広がったそうです。 舌も同じだと聖書は語ります。小さな舌が語った言葉が、大きな風評となり、世論を動かし、時にはナチスのような虐殺を行わせるまでになります。 日本でも、SNSの「炎上」でうつや自殺に追い込まれる人々が出ています。 言葉づかいとその影響力には、聖書のみことばを心にとめ、十分自戒する者でありたいです。 同時に、励まし信仰を与え、周囲を建て上げる言葉が、もっともっと私たちの口から出てきますように。 祈り:神様、あなたのくださった舌を正しく用いることができるよう、私の思いを守り変えてください。言葉の持つ影響力への配慮を与えてください。アーメン

ヤコブ2

「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」ヤコブ2:26 ヤコブ書は信仰に伴う行いに重点をおいています。 救いはただ恵みであり行いによるのではない、ということに異論はありません。 しかし、恵みの大きさを知ったら、信仰生活で主のために実践をしたいと思うのは当然です。 礼拝も、祈りも、献金も、他者に親切にしたり助けたりするのも、主の恵みに応答したいという思いからです。 逆に、観念的な信仰だけでは本当に主の恵みを理解しているとは言えません。 どんなに立派なことを口で言っていても、差別をしたり罪深い習慣を続けたりしているなら、その信仰には力がないということです。 今日、どんな信仰の実践ができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛と恵みに応答したいです。これまでないがしろにしてきた_____について、信仰の実践として一歩踏み出すように感じています。助け導いてください。アーメン

ヤコブ1

「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」ヤコブ1:17 小惑星が2032年に地球に衝突するかもしれない、という記事を読みました。 現時点での確率は2.2%とのことで、97.8%は地球のそばを通過することになります。 これを多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。 こうしたニュースを聞いて改めて驚くのは、日々精巧に地球や惑星の軌道が守られ、太陽や月、星の光が届いていることです。 たまに衝突の可能性があるとニュースになるほど、いつも守られているのです。 すべての宇宙を治め、光そのものを造られた父なる神がどれほど偉大か、そしてどれほどあわれみ深いかを覚えます。 祈り:神様、あなたは良い方、すべてを治めておられる方です。主を賛美します。今日もあなたの光で行くべき道を照らしてください。アーメンn

ヘブル13

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」ヘブル13:8 初代教会のクリスチャンたちは、迫害されたり投獄されたりと日常的に試練を通っていました(23節を見ると、テモテも投獄されていたことがわかります)。 日本で信仰を守ろうとすると、周囲からのプレッシャーがあるかもしれません。しかし、当時は文字通り命がけでした。 投獄され、迫害され、時には追放されると、持ち物のすべてを失います。 今のように福祉制度が整っているわけでもありません。 それでも、主に信頼し、守られながら歩んでいきました。 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(5節) 主が共にいてくださる恵みが、何ものにも勝ることを覚えます。 祈り:神様、主の守りと、いつも共にいてくださる恵みに感謝します。 日本の風習やしがらみの中で信仰生活を送る一人一人に、励ましと勇気が与えられますように。アーメン

ヘブル12

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」ヘブル12:2 ヘブル12章は、今生きている私たちに励ましを与えてくれる章です。 イエス様から目を離さないように(2節)、またいつもイエス様のことを考えるように(3節)というのが、心が疲れ果てない秘訣だと語ります。 また、私たちは孤独ではありません。 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか(1節)」と勧めます。 先日の宣教師の葬儀では、出棺の時にクリス・トムリンの「ホームHome」という曲が流れました。 「この地上は私たちの場所ではない 痛みや悲しみのない もっとよい場所が天にはある すべての涙がぬぐわれ すべての悲しみと罪がない 天国ですばらしい恵みの海の中で踊るのだ 天国で ぼくは故郷に行く 金色の道のある天国に すべての鎖から解き放たれ ああ故郷に帰りたい 故郷に すべての恐れから解き放たれて 主のみ腕の中に 天国で 天国で」 私たちも同じ希望を告白する者となれますように。 祈り:神様、天の御国に行く日まで、希望をもって信仰の歩みを続けることができるよう助けてください。今試練を通っている方が、主のもとに安らぎと慰めを見いだせますように。アーメン

ヘブル11

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1 長年親交のあった宣教師が、先週病で突然天に召されました。60歳に満たない若さでした。 見えない天国を確信し、いつも憧れていたということでした。 彼の死はショックで悲しく寂しいですが、家族のあかしを聞くと、見えないものを確信していた本人と家族の信仰に教えられます。 「信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。(9節)」 アブラハムだけでなく、私たちもこの地上に一時の間住まう者です。 肉体はやがて滅びます。数十年の間、寄留者のように地上に生きています。 しかし、私たちには「堅い基礎の上に建てられた都(10節)」があります。 それを信じ、待ち望むのが信仰です。 祈り:神様、見えない主を信じ、永遠のいのちを確信し、御国を見る信仰を与えてください。先に召天した人たちに再会する日を待ち望みます。アーメン

ヘブル10

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」ヘブル10:25 ヘブル10章の中盤には、大祭司キリストがいるから「・・・ではありませんか(=しましょう!)」という励ましが連続しています。 ・そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(22節、第三版) ・約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(23節) ・愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか(24節) ・ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか(25節) 初代教会以来、教会は共に集まり、礼拝をもち、ささげものをし、交わりをすることをキリストの前に守り続けてきました。 そして、ささげ仕える以上の恵みをキリストから受けてきました。 自分の都合やお気楽さだけでは得られない、貴重なものをつかんできました。 祈り:神様、イエスキリストという大祭司の元に集い、希望と互いへの愛を深め、主が再び来られるまで励まし合う者とならせてください。アーメン

ヘブル9

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」ヘブル9:27〜28 キリストは作り物の幕屋ではなく、本物である天そのものに入られ、ただ一度ご自身をささげてくださいました。 厳粛かつ完全な贖いのわざが完了したことが明示されています。 そして、人間にとっても厳粛な定めがあります。 それは、一度死ぬことと死後にさばきを受けることです。 致死率100%の人間には、神の審判を受けることも100%です。 もっとも、キリストを否まなかった人にはさばきは怖いものではありません。それはむしろ、恵みと喜びの時です。 今日神の前に立つ準備ができていますか? 祈り:神様、私のいのちはあなたの御手の中にあります。生涯がいつ終わるか、私たちにはわかりません。でも肉体が滅びても、永遠のいのちを頂いていること、さばきが怖くないことに感謝します。長年祈っている家族が揃って、永遠のいのちを喜ぶことができますように。アーメン

ヘブル8

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。」ヘブル8:1~2 地上の祭司たちは、「天にあるものの写しと影」に仕えていると5節にあります。 いわば、キリストのあがないのわざをよく理解させるために、神が旧約時代からの祭司を実物教材として示してくださっていたということです。 イエス様もよくたとえを使われました。聞く人たちがわかりやすいように、実物教材を使いながら神の国の真理を話してくださいました。 私たちが福音を分かち合うのも、教理のことばだけでなく、私たち自身のあかしや福音の恵みの体験を通じて分かち合うことができます。 そして、それは福音をはじめて聞く人にとっては分かりやすく、効果的な伝道方法です。 立派な、素晴らしい劇的なものでなくても、日々の小さな出来事にあかしはつまっています。 祈り:神様、日々の恵みに気づかせてください。福音の恵みを、小難しいことばではなく、自分の体験としてあかしできるよう、一人一人を整え、わかりやすいことばを与えてください。アーメン

ヘブル7

「このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」ヘブル7:26 ヘブル書の著者は、祭司・大祭司の社会制度をよく知っていたイスラエルの人々に、すぐれた唯一無二の大祭司としてのキリストを説明します。 家系によらない大祭司の例としてメルキゼデクを出し、レビ人に勝る者が存在しうることを証明します。 そして、世襲や交代をしなくても、イエスキリストが永遠に存在され、変わることがないとりなしの務めをしてくださるのだとも言います。 今の日本に住んでいても、その言おうとする真理は十分に伝わります。 聖書は決して外国のものでも過去のものでもなく、今日の私たちにも意味のあるものです。 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(25節)」 祈り:神様、イエスキリストが偉大な大祭司として今も生きておられ、私たちのためにとりなしをしてくださっていることに感謝します。日本の人たちが聖書を単なる異国の宗教と思わず、生ける神のことばとして受けとることができるよう、心を開いてください。アーメン

ヘブル6

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」ヘブル6:19 心が不安で揺れることがありますか? 私はしょっちゅうです。 朝方、気になることをはっと思い出し、そこから眠れなくなることもあります。 ただ、私たちのどんな心配も、ただ1つを除いては一時的なものです。地上生涯を越えて心配することはありません。 例外は、永遠のいのちを持てるかどうかです。 そして、キリストを信じる者にはそれがあたえられています。 まさに「たましいの錨」となる希望です。 そして、いのちの書に名がかかれた者は、永遠に主とともに住むことができるのです。 祈り:神様、あなたの前に進み出ることのできる特権を感謝します。 私にたましいの錨となる平安と確証を与えてくださり感謝します。今、不安に思う…………のこともあなたにおゆだねします。忍耐と解決を与えてください。アーメン

ヘブル5

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」ヘブル5:7 「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます(2節)」と、ヘブルの社会では最もわかりやすい大祭司について語ります。 同じように、偉大な大祭司であるキリストは肉体をもって生まれてくださった、寄り添ってくださった方なのだと説明が続きます。そして、大きな叫び声と涙をもって祈られた、と述べます。 神のひとり子である方が、叫び声と涙をもって祈られたとは! 罪は犯されませんでしたが、肉体をもたれ、私たちの痛みや悩み、鬱や傷さえもわかってくださる方です。 祈り:神様、私たちの痛み苦しみをわかってくださり感謝します。 鬱の中にある方とその家族を慰め力付けてください。主にある平安と希望が望みますように。与えられたいのちと人生を慈しみ、主にあって大切に楽しみ過ごすことができますように。アーメン

ヘブル4

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ヘブル4:15 最近、心が傷つく出来事がありましたか? 悲しい経験をしましたか? 自分の限界と至らなさに気づいて愕然としましたか? そんな私たちを、イエスキリストは十二分に理解してくださいます。 なぜなら、人として歩まれ、私たちと同じように試みにあわれ、誤解を受け、十字架にまでかかってくださったからです。 深いあわれみと全てに勝利された主を知り、主のもとに何でも持っていけるとは、 なんという幸いでしょう。 祈り:神様、感謝します。 「私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保(14節)」ちたいです。 「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ(16節)」きます。アーメン

ヘブル3

「このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」ヘブル3:19 不信仰では安息に入れない、と言われています。 では、不信仰とはどういう状態でしょう。 それは、エジプトで文句を言った民のようです。 心が迷い、頑なになっている民は「神に反抗している」と表現されています。 彼らは荒野で文句を言いました。水がない、食べ物がない、なぜこんな所に連れてきたのだ、エジプトが良かった...等々。 疲れていたでしょう。 手持ちの食料が尽きて不安だったでしょう。 野宿は寝心地が悪かったでしょう。 先行きが見えなかったでしょう。 荒れ地続きの風景にマンネリしたでしょう。 それでも、神に信頼しないで文句を言う民は「不信仰」だった、と聖書は語ります。 他人事ではありません。 私たちも近視眼になり、他者と比較し、腹立ち、疲れ、文句を言う者です。 安息に入るために、悔い改めて柔らかい心を持ちたいと願います。 祈り:神様、過ぎる一週間、あのこと、このことで腹立ち、怒り、あきらめ、文句を言う者でした。赦してください。主に信頼し安息に入れるように、私の頑なな心を柔らかくしてください。アーメン

ヘブル2

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」ヘブル2:14~15 キリストは、人を救うために人となって来てくださいました。 天使となるためではなく、人となられたのです。 死に対して恐怖を抱き奴隷状態になっていたところから、私たちを解放してくださいました。 死が終わりではないという希望を持てることは、どんなに幸いでしょうか。 愛する家族と別れたくないのに死があるというのは、人々にとって絶望でした。 しかし、永遠の別れでもなく滅びでもないという希望を、キリストが与えてくださったのです。 祈り:神様、なんと幸いな希望をいただいたことでしょう。どうか永遠のいのちの希望を、もっと多くの方が知ることができますように。家族との離別にうちひしがれている人に希望を与えてください。一時の別れとはわかっていても愛する家族を主のみもとに送った方々にも、深い慰めがありますように。アーメン

ヘブル1

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」ヘブル1:3 ヘブル書の著者ははっきりしません。しかし、宛先はヘブル人、つまり旧約聖書についてよく知っていた人々に向けて書かれました。 旧約聖書がイエスキリストについて語っていること、キリストこそ待ち望んだメシアであることを語っています。 ヘブル書の1章が、まるでオーケストラの交響曲が始まるかのように感じられます。 それは、御子の素晴らしさを表現するために宇宙が静まり、その光が差し込んでくるような記述が続くからです。 期待を持ってヘブル書を読んでいきましょう。 祈り:神様、旧約聖書に書かれたメシアがイエスキリストであることを明らかにしてくださり、感謝します。私たちの目を開き、聖書がよくわかりますように。旧約聖書だけを信じているユダヤ教の人たちの目も開かれますように。アーメン

ピレモン

「獄中で生んだわが子001オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」ピレモン10 獄中の不自由な生活の中、パウロは奴隷オネシモを改心に導きました。 おそらくオネシモは主人のところから逃げてきたか、不正を働いたかだったようです。 パウロに出会い、キリストの福音にふれて彼は悔い改めました。 そしてパウロのもとで訓練され、福音の働き人として用いることのできる器となりました。 もう以前の彼ではないとして、パウロは奴隷オネシモを「同労者ピレモン(1節)」の元に送り返しました。 しかも、負債があるなら、パウロは自分が代わりに支払ってもよいと言いました。 短い手紙の中から、いくつもの恵みと希望を汲み出すことができます。 ・どんな人でも福音によって悔い改め、救われる可能性がある。 ・その人を無条件に甘やかすのではなく、訓練し戒めて主の器として整える。 ・私たちもキリストの心を表すことができる。 祈り:神様、福音は人を変え、人生を変えます。主に造られた者として、主が望まれる歩みに今日も導いてください。救われないだろうと思うあの人の心にも主が働き、心柔らかくしてください。アーメン

テトス3

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトス3:5,6 テトス書の終わりは、救いが私たちの善行によってではなく、神の愛のあわれみによることを確認しています。 しかも、聖霊による再生と刷新の洗いによってなされたのだ、と表現しています。 このあわれみの聖霊が今も豊かに注がれていることに感謝します。 私たちにいのちを与え、愛で満たし、あふれさせてくださることに感謝します。 祈り:神様、今も生きて働かれるイエスキリストとその霊に感謝します。私たちが聖霊に豊かに満たされ、あなたの愛を流し出す者となれますように。アーメン

テトス2

「また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。」テトス2:7~8 年配の男の人に対して(2節)、年配の女の人に対して(3~5節)、若い人に対して(6節)の勧めに続いて、働き人のテトス自身への勧めが書かれています。 人の弱点やあらはよく見えます。しかし、自分自身についてはなかなか気づかないものです。 戒め勧めてくれる人がいるというのは幸いなことです。 「逆ギレ」せず、忠告が愛に根差しているなら受け入れる謙遜な心を備えたいです。 祈り:神様、聖書と愛に基づいた忠告を受け入れることができる柔らかい心を与えてください。勇気をもって戒めてくださった方を逆恨みせず、感謝できますように。アーメン

テトス1

「それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。」テトス1:2 パウロは自分の選びを、神が永遠というスケールで計画してくださった希望に基づくと説明しています。 自分の思いつきだけでなく、この時代の一過性のものでもなく、聖書を通して流れる神のご計画の一部を担うという自覚がありました。 しかし、これは大使徒パウロだけではありません。 一人一人の救いが、選びが、永遠の神の約束に基づいています。 そしてそれは、神の壮大なご計画に参与するためです。 なんと光栄なことでしょう。 そして、この人が、あの人が、代わりのいないかけがえのない存在なのです。 祈り:神様、あなたの愛のご計画を感謝します。福音を届けられ、受け入れることができた恵みを覚えます。神の目に高価で尊い信仰の兄姉と、互いに尊重し仕え合えますように。アーメン

Ⅱテモテ4

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2 過ぎる一週間も、事故や事件のニュースがあり、政治は動き、寒さに耐え、知人や家族の体調の悪さを聞き・・・という日々だったと感じるでしょうか。 なかなか手放しで「時が良くても」と言えないかもしれません。 聖書は「時が良くても悪くても」、どんな時でも「みことばを宣べ伝える」よう勧めています。 「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(3・4節)」 まさに今日、SNSや噂、作り話が蔓延しています。自分の好みの記事だけを読み、どんどん偏った情報ばかりが入ってくる仕組みもできています。 しかし、このような時だからこそ、変わらない福音の価値が輝きます。 その信仰をもって、新しい週も生きることができる恵みに感謝します。 祈り:神様、福音の真理に頼る幸いを感謝します。どんな時代になっても、主の十字架が希望であり輝き続ける光であることを覚えます。今週も忍耐と慎みを与えてください。アーメン

Ⅱテモテ3

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」Ⅱテモテ3:16 木曜集会でヘンリ・ナウエンの「すべて新たに」を読んでいます。 今週読んだ中に、神の前に静まり、聖霊の臨在を覚える習慣の大切さという内容がありました。 たとえ短くても、生産性とは無縁の、ただ神といることを覚える時間を持つことがすすめられていました。 その時に、何節かのみことばをゆっくり、じっくり黙想することも書かれていました。 なぜなら、聖書のみことばは「神の霊感によるもの」だからです。 それは「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」です。 今日はこの1節をじっくり思い巡らせてみませんか。 祈り:神様、あなたの霊感によって書かれた聖書が手元にある恵みに感謝します。私の霊性を整え、大切な決断や今日の判断の前にあなたの臨在を覚えることができますように。アーメン