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12月, 2024の投稿を表示しています

ガラテヤ5

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」ガラテヤ5:16 2024年最後の日になりました。 今年、どのくらい御霊によって歩んできたでしょうか・・・ 「はい、いつも」と答えられればよいのですが、そうでなかったこともあったのではないでしょうか。 私自身もそうです。 悔い改めつつ、あきらめず導いてくださる主に感謝します。 希望をもって、新しい年は御霊の働く領域を日々広げていただきましょう。 祈り:神様、この一年も導いてくださりありがとうございました。 私の領域で______には肉の思いが残っていました。新しい年、御霊が優しく 導き、御霊にゆだね造り変えていただくことができますように。主に従い歩ませてください。アーメン

ガラテヤ4

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:7 律法の下にとらわれるのではなく、キリストの十字架によって救われたことは、どれほど素晴らしいか。 それは、奴隷の身分から「子」になり、正式な相続権を持つ身分となったと言えます。 いったん自由になったのに、また奴隷になりたいと思う人はいません。自由の素晴らしさを知っているからです。 この1年、律法的になったり古い肉の性質に戻ったりしてしまったことはあったでしょうか。 神はそのこともご存知です。気づきが与えられるとはに、心のその部分に光が当たったといえます。 がっかりせず、聖霊による気づきを感謝し助けを求めましょう。 祈り:神様、私たちを一歩一歩導いてくださり感謝します。聖化の途上にある私たちです。私の心に光を当てて探り、聖霊が優しく気づきを与えてください。アーメン

ガラテヤ3

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」ガラテヤ3:24 聖書は、律法を必ずしも悪いものだとは言っていません。 それ自体では人を救うことができないものの、それは罪を明らかにし、約束された神の救いが必要だということを人に示すから(NIV Study Bibleの解説)です。 律法は「養育係」として、私たちがどこに行けば救われるのかを示します。 ですから、キリストによって救われたのに「養育係」である律法に固執したり、パリサイ人のように律法的に人を判断しようとする姿勢がふさわしくない、というのです。 教会には様々な性格や境遇の人が来ます。自分と違うからといって避けたり裁いたりするのではなく、 「キリストを着」て(27節)、 「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つ(28節)」 を実践する者となれますように。 祈り:神様、あなたがキリストによりくださった救いと解放を感謝します。主にある自由を、教会で霊の家族と共に日々味わえますように。御国の相続人としてくださりありがとうございます。アーメン

ガラテヤ2

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ガラテヤ2:20 ガラテヤ人への手紙の中心テーマが16節にあります。 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」。 これをどれだけ受け取っているでしょうか。 ついつい自分の習慣、家族のしきたり、教会のいつものやり方、世間の常識と言われるものを押し付けてしまいます(自戒をこめて・・・)。 特に年末の慌ただしい時には、動いていないといけないような、じっと静まるのが悪いことのような錯覚に陥ります。 からみつく肉の性質を自覚しながらも、「もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言します。 祈り:神様、私のうちにキリストが生きていてくださると認めます。 年末で忙しくしている___さん、___さん、そして置き去りにされたような寂しさを覚える人達に、平安がありますように。私たちの焦る肉の性質を取り扱い、あなたの安息を受け取らせてください。アーメン

ガラテヤ1

「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、」ガラテヤ1:1 ガラテヤの人々に、パウロは自分をこのように紹介し始めます。 人間の努力や重用によってでなく、ただキリストと父なる神によって、自分が使徒として召されたのだ、と。 この章を読み進めると、パウロがこれまでの自分の歩みを書いているのがわかります。 かつてはクリスチャンを迫害していたこと。 救われてもその後、アラビアの荒野で訓練され、そしてようやくエルサレムに行ったこと。 自分のことは噂でしか知られていなかったこと、などです。 パウロは人に評価されることより、福音の恵みをただ伝えることに価値を置いていました。 私たちはいろいろなしがらみの中で生きています。 自分の働きが横取りされたり、正当に評価されなかったりということもあります。 仕事だけでなく、奉仕や兄弟姉妹のかかわりの中でも同じように感じることがあるかもしれません。 しかし、神がパウロをよく知っておられ、彼でなければできない働きに召されたように、 神は私たち一人ひとりをよく知っておられ、その人でなければできない働きに召してくださっています。 私にとって、あなたにとって、それはどんなことでしょうか。 祈り:神様、私の存在に価値があると言ってくださり、ありがとうございます。 あなたが私に望まれる生き方、奉仕へと導いてください。今日もみこころに沿った一日を生きることができますように。アーメン

Ⅱコリント13

「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。」Ⅱコリント13:4 キリストは肉体をもった人として来られ、一番似つかわしくない弱さをまとってくださいました。 しかし、神としてはその力により死に勝利されました。 私たちは肉、つまり生来の性質としては弱い者です。 体力には限界があり、疲れたり病気になったりします。 ちょっとしたことで腹を立てたり、誤解をしたりします。 しかし、神の力によって生かされる者となりました。 キリストと共に年末を迎える恵みを、今年も感謝します。 祈り:神様、あなたの限りない愛を感謝します。私たちの弱さを知るだけでなく、キリストにあって生きる道を与えてくださいました。この愛に応答したいです。アーメン

Ⅱコリント12

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私043をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」Ⅱコリント12:9 元力士のKONISHIKI(小錦)さんが、腎不全のため腎臓の移植手術を受け成功したというニュースを聞きました。 相撲で有名で、タレントとしても活躍した方が闘病されていたのだと初めて知りました。 奥様が自身の腎臓を提供されたということには、強い夫婦愛を感じたことでした。 さて、パウロも「とげ」、おそらくは目の病に苦しんでいました。 癒しを祈ったものの、主はそのままの状態で「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。 弱さを通して、パウロは主の恵みをいっそう覚え、働きを続けていったことでした。 その恵みとはイエス・キリストの愛から与えられるものに他なりません。 私たちの不治の病である罪と滅びを救うため、腎臓どころでなくいのちそのものをキリストは提供してくださいました。 信じる者には、移植を受けたように永遠のいのちと白い義の衣が与えられます。 KONISHIKIさんご夫妻のニュースに感動するなら、イエス・キリストの身代わりの死による愛には、どれほど感動してもし足りないのだと思わされます。 祈り:神様、私たち永遠にいのちを与えてくださった愛を感謝します。十字架の愛がもっともっとわかるように導いてください。ひとり子を世に遣わしてくださった神の深い愛と恵みに感謝します。アーメン

Ⅱコリント11

「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」Ⅱコリント11:30 パウロの通った苦難が、この章の中に具体的に列挙されています。 「労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました(23節)」と始まり、 ・ユダヤ人から39回(限度ぎりぎりの)むちを受けたことが五度 ・ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度 ・難船したことが三度、一昼夜にわたり海上を漂流 ・(旅での)川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難 「 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました(27節)」と、肉体には数えきれないほどの苦難がありました。 それと並んで、霊的な労苦がありました。 「日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか(29節)」と、牧会の苦労を方っています。 霊的な労苦は、肉体の労苦と並ぶかそれ以上に存在します。 つまずく時は、それぞれに言い分があるでしょう。 牧会者や兄弟姉妹の不完全さ、足りなさに腹立たしく思うこともあるでしょう。 しかし、このクリスマスに、様々な困難を覚えつつ福音宣教に仕える、全国の牧師、伝道者、リーダー、クリスチャン一人一人を覚えて祈りましょう。 主にある愛と忍耐に立って祈る人に、主の祝福と喜びが格別に注がれますように。 祈り:神様、様々な形で困難の中にある働き人やクリスチャンに、あなたの慰めと励ましが豊かにありますように。大きな悩みの中にある教会、僻地や被災地にある教会とそのメンバーを力付けてください。私が集う教会の一人一人にも、主にある深い喜びがありますように。アーメン

Ⅱコリント10

「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」Ⅱコリント10:4 武器が肉のものでないということは、霊的な戦いに用いるものであるといえます。 そして、その戦いは私たちの思いなど、目に見えない領域に挑まれてきます。 日々見聞きする悲惨な事件やニュースでさえ、私たちの心を落ち込ませるための材料として、戦いを挑んできます。 もっとも、戦いの勝利はすでに主によって確定しています。 私たちがするのは、主の御翼の陰に身を寄せ、イエス・キリストの御名をもって立ち向かうことです。 パウロはエペソ人への手紙6章でも、類似のことを書いています。 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6:11) キリストに属する者として、神の武具の一つ一つを今日も身に着け、主と歩む一週間になると信じます。 祈り:神様、私の心を暗くする_____の情報、_____の関係、______のことが、わなになることがないよう守ってください。霊的な要塞を打ち壊すことのできる、神の武器が信じる者に与えられていることに感謝します。アーメン

Ⅱコリント9

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」Ⅱコリント9:7 教会の献金袋にこの聖句が書かれているので、なじみの方も多いと思います。 この章が勧めているのは礼拝献金に限らず、「信仰によってささげること、与えること」全般です。 今日で言えば、教会に、宣教団体に、働き人に、信仰の友に、必要のあるところに・・・。 強制された会費や上納金ではなく、自発的に神への感謝をシェアしたい、祝福に応答したいというのが動機です。 そして、神は喜んでささげ与える人を守り、必要を満たしてくださるとも約束されています。 「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(6節)」 「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(8節)」 「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(10節)」 「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(11節)」 この聖書の約束をどこまで信じていますか。 立ち止まり、自分さえよければよいという心や惜しむ心がないか、クリスマス前に点検したいと思います。 祈り:神様、あなたが日々多くを与えてくださっていることに感謝します。どうか私を、喜んで与える者にしてください。あなたから頂く恵みを数えて感謝し、教会や宣教の働きを通してこの喜びがますます広がりますように。アーメン

Ⅱコリント8

「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。 Ⅱコリント8:15 参照されている箇所は、出エジプトの後、民が荒野でマナを集めたところです。 手に入れる量は人によって違ったものの、全ては神が与えてくださった恵みでした。 そして、神がそれぞれの分に応じて養ってくださいました。 献金についてパウロが引用しているのは、私たちの収入もマナと同じく、全てが神から来るからです。 自分の力で得たと思っても、それだけではありません。神が降らせたマナを集めたのです。 神が私たちの手にゆだねられたものを、感謝して適切に用いささげることが、信仰者の幸せなライフスタイルだと学びます。 祈り:神様、全てはあなたのものです。主が望まれる使い方に、気前よくさせてください。あなたに知恵と導きを頂き、もっと安心し、喜びリラックスできますように。アーメン

Ⅱコリント7

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10 悲しみにも2種類あることがわかります。 ひとつは神に近づくもの。悔い改めへと導き、救いをもたらします。 パウロがある手紙を書いて人々の罪を指摘したことで、コリント教会の人たちは悲しみました。しかしそれで終わらず、悲しんで悔い改めました。 もうひとつは世の悲しみで、死をもたらします。 解決や希望のない、この世の価値観のみによるものです。 多くの人がこの世の価値観で人生を判断し、優劣をつけています。 日本は、一度失敗すると人生のやり直しが難しい国だとも言われます。 聖書のメッセージは、人生はいつからでもやり直せるというものです。 神の愛と義に打たれ、罪や失敗を悔い改めるなら、そこに救いが用意されています。 祈り:神様、あなたの愛と義を感謝します。みこころを日々知ることができますように。事件や事故の被害にあった人たちに、回復と励ましがありますように。加害者の人たちが主を知り、心から悔い改めることができますように。アーメン

Ⅱコリント6

「また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。...」Ⅱコリント6:8 批判や悪いうわさをされた時、へこたれませんか? 私はそれらに弱い者だなあと思います。 もっとも、どんなに悪く言われても、パウロの経験ほどではないようです。 彼の苦労は生易しいものではありませんでした。 「...苦難にも苦悩にも困難にも、むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も...(4、5節)」 と、肉体的にも苦労しました。 しかし、彼は希望を失いません。 「死にかけているようでも...懲らしめられているようでも...悲しんでいるようでも...貧しいようでも...何も持っていないようでも(9、10節)」 すべてが備わっていると宣言しています。 なぜでしょうか。 それは、見えないものに目を留めること、永遠のいのちと主の栄光に焦点を定めていたからです。 また、キリストが全ての苦労を知ってくださっているとわかっていたからです。 地上に来られたイエス様は、十字架への道を通られました。 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル4:15)」 このイエス様こそ、私たちの主、クリスマスでお祝いする希望です。 祈り:神様、私たちの悩みや苦しみをわかってくださり、あわれんでくださり感謝します。 私の心は今、_________のことが気がかりです。 また、____さんの________のことでも心を痛めています。 重荷を主の足元に置きます。平安が与えられることに感謝します。アーメン 今日、心に重くかかっていることは何でしょうか。

Ⅱコリント5

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17 洗礼式の時、いつもこの賛美をします。 だれでもキリストのうちにあるなら、新しく造られた者です。 「キリストのうちにある」とはどういうことでしょうか。 キリストが救い主だと信じてはいるものの、感情や状況だけでは「キリストのうちにある」かどうか、確信が持てないかもしれません。 それは、私たちが「地上の住まいである幕屋」、つまり肉体にあるからです。 霊的なことをすべて理解できない限界があります。 「私たちはこの幕屋にあってうめいて」います(2・4節)。 しかし、すでに霊的な天の住まいが与えられることも私たちは知っています。 内住する御霊はその保証であり(6節)、「見えるものによらず、信仰によって歩む」という信仰の道筋を共にいて導いてくださいます。 感情によらず御霊がおられるという信仰の歩みが、この1年も与えられたことに感謝します。 祈り:神様、揺れ動く私の感情や状況ではなく、御霊が変わらずいてくださる恵み、イエスキリストが永遠に救い主であるという確かさに寄り頼ませてください。 様々なニュースに不安を覚えている人たちが、永遠のいのちというプレゼント、莫大な恵みの福音の知らせを信じることができますように。アーメン

Ⅱコリント4

「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」Ⅱコリント4:7 寒くなると、体のあちこちが痛みますか?膝、首、腰・・・。 「気持ちはあっても体力がついていかなくて」という方もおられるでしょう。 13節には「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とあります。 外なる人、つまり肉体は衰えます。老いは誰にでも訪れます。「死へと一日一日近づいている」と言った人もいます。 しかし、聖書は落胆だけで終わりません。「内なる人は日々新たにされる」のです。 そして、この弱い土の器にも、キリストの宝を入れていると述べています。 神の測り知れない力が土の器を通して光り輝くなら、これ以上の光栄はありません。 ろばの子がイエス様をお乗せしたように、私たちもろばの子のように用いていただけるのです。感謝です。 祈り:神様、キリストの光がそのひびから輝き出るような、土の器として用いてください。容姿や友人関係に悩みがちなティーンエイジャーの___さん、___さんがキリストのまなざしを感じられますように。老後の生活に不安を抱いている___さん、___さんに平安と備えが与えられますように。アーメン

Ⅱコリント3

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18 昨日はコンサート礼拝でした。楽器の音色に耳を傾けながら、こんなに素晴らしい音が出るとは、楽器の一部分しか知らなかったのだとわかりました。 同じように、私たちは主のご性質をまだ一部分しか知らないのだと思わされます。 主のご性質により変えられるプロセスは、御霊の働きによるのだとあります。 主を少しずつ知り、主の栄光を鏡のように反映させて頂くのです。 主のご栄光を反映する器としていただける恵みに感謝しつつ。 祈り:神様、あなたがくださった賜物や機会を感謝します。そして何よりも、主を知る歩みに招いてくださったことを感謝します。私を練り、あなたのご性質を反映する器として用いてください。アーメン

Ⅱコリント2

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」Ⅱコリント2:14 コリント人への手紙第二に流れているテーマは「弱い器を通して神が大きな働きをなさる」です。 神が私たちを救い、キリストによる勝利の行進(凱旋の行列)に加えてくださいました。 私たちはただ、恵みとあわれみを受けた者です。 さらに、キリストを知るための香りを、私たちを通して神が放ってくださるというのです。 メッセージもどんな奉仕も、自分の限られた知性や力ではできません。自分自身は弱い小さなものです。 しかし、主が召して志と力を与えてくださるので、祈りながら向かうときに主がさせてくださいます。 あの人の力ではなく、主の力です。 祈り:神様、あなたが小さな者を召し、救いにあずからせ、キリストの凱旋の行列に加えてくださったことに感謝します。行列の中で歩く力も、放つ香りも、すべてあなたからのものです。素晴らしい主に信頼し従う心を与えてください。アーメン

Ⅱコリント1

「 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」Ⅱコリント1:4 神様がまず私たちを慰めてくださったから、その慰めによって他の苦しむ人を慰めることができるのだ、と述べられています。 パウロは恵みを自分だけのものにしようとはしませんでした。 また、自分だけの功績をたてようとはしませんでした。 この手紙は、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから」 と始まっています。 パウロだけでなく、若いテモテが共に働き労苦していることが示されています。 後に、パウロはテモテに宛てて励ましの手紙も書いています。 主に仕えるのはチームワークです。 若い人が育ち用いられるのを喜んでいるでしょうか。 おおいに慰められた私たちには、慰め手、よいコーチとしての働きが生涯与えられているのだと期待します。 祈り:神様、他の人と比較せず、嫉妬せず、主の働きが前進するのを心から喜ぶ者になれますように。あなたからの慰めを頂いた者として、次の人たちを慰め励ます働きに召してください。アーメン

Iコリント16

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」Iコリント16:14 コリントを訪れる予定があること、テモテやアポロのこと、 ステファナ一家や兄弟姉妹のこと、アジアの諸教会のこと... 教会や人の名前が列挙されます。 そして、コリント教会の人々へ 「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい(13節)」 「一切のことを、愛をもって行いなさい(14節)」と励まします。 この励ましは私たちへの励ましでもあります。 しっかり、強く、・・・というだけではなく、 「愛をもって行う」ことがどれほど大切か、 そのことをしみじみ思います。 アフガンで働き抜いた中村哲氏の生き様と、 人々と神を喜ばせるなら「なんでもする」という姿勢は、 イエス・キリストにもみられるものだと感じました。 いいえ、まずイエス・キリストが愛をもって「なんでもしてくださった」のです。 地上に生まれ、貧しく暮らし、十字架で死ぬことまでしてくださったから、 私たちは永遠のいのちを頂けたのです。 「愛をもって行う」姿勢をキリストに学ぶアドベントの日々です。 祈り:神様、あなたが私たちに愛をまず示してくださいました。 あふれるばかりの愛を、流し出すことができるよう、導いてください。 アドベントの時期、苦しみ悩んでおられる___さん、___さんに、主にある解決、主にある希望が臨みますように。アーメン

Iコリント15

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」Iコリント15:3~5 福音の中心がここに示されています。 パウロはこのことを伝えるために命をかけました。 それは、彼にとっては福音があまりにも素晴らしいからでした。 クリスマスは神の愛を最も伝えやすい時期です。 人々が抵抗なくクリスマスや教会を受け入れてくれます。 うまく伝えられない時や躊躇してしまう時もありますが、聖霊の導きを祈りつつ歩むなら、たとえ思うようなやり方でなくても、それは無駄ではありません。 「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから(58節)」 と、励ましの声が聞こえるようです。 今日は中村哲氏のドキュメンタリーを見る予定です。彼も井戸を掘るということで主の愛、恵みといのちの水をアフガンで分かち合いました。 私たちは何を通して主の愛を分かち合えるでしょうか。 祈り:神様、人の心を変えることができるのは聖霊のわざです。私たちはあなたの愛と福音をさまざまな形で流すように召されています。賜物に応じて、各々の持ち場と方法で今日も働くことができますように。アーメン

Iコリント14

「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」Iコリント14:33 毎年この時期、配送業者の人たちは大忙しです。その働きぶりは現代のサンタクロースのようです。 私たちも何かと忙しいですね。 こうした日々の中では、適切な優先順位を維持することが難しく思えます。 忙しさにかまけて、ろくに祈りもせず重要な判断をしたり、朝聖書を読もうと思っていたらもう夜遅くになっていた、ということがあります。 しかし、パウロは教会の中での秩序、賜物の用い方の秩序について教えています。 そして「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」と述べました。 教会だけでなく、私たちの心にとっても「神は平和の神」です。 人間関係や自分の心の中が混乱していると思ったら、平和の神に頼る時です。 神様は、私たちが追い詰められて混乱するのを願ってはおられません。 穏やかで幸せに過ごすことを誰よりも願っておられます。 今日も神の平和がありますように。 祈り:神様、私の生活の中にあなたの知恵と適切な優先順位を持たせてください。 繁忙期にある___さん、___さんを励ましてください。子どもたちの学期末を迎える___ファミリー、___ファミリーにも平安がありますように。アーメン

Iコリント13

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」Iコリント13:13 ウクライナ、パレスチナ、地震、テロ、クーデター...。 暗いニュースを見聞きすると、「希望」や「愛」がどこに行ってしまったのかと感じます。 しかし、聖書ははっきりと「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と約束しています。 その中で一番すぐれているのは「愛」であり、その特質が13章に列挙されています。 何年も前に、4~8節をクロスステッチで刺繍したことがあります。 その時のように、折にふれて「愛は寛容であり・・・」と味わう必要があるなと思わされています。 祈り:神様、あなたの愛の性質を学ばせてください。人間の愛の限界を越えたキリストの愛を受け、流し出す者となれるよう、弱い私を助けてください。一番近い隣人に、まず愛を実践できますように。アーメン

Iコリント12

「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」Iコリント12:27 私たちがキリストのからだであるとは!いったい私はどの部分かしら、と、考えることがあります。 自分には何もできないと思っても、神様は一人一人がかけがえのない存在だと言ってくださいます。 あの人のようにできなくても、それぞれが違った役割と賜物を与えられています。 今までできていたことができなくなっても、新たなからだの部分としての役割があるとキリストは言われます。 祈り:神様、キリストのからだとして加えられていることに感謝します。 私はどの部分であることを、あなたは望まれるでしょうか。 そのように存在すること、仕えることができるように助けてください。アーメン

Iコリント11

「女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。」Iコリント11:12 この章では、コリント教会内の秩序が乱れ、つまづきになっていたことがわかります。パウロはそれを戒め、それぞれがわきまえるようにと勧めました。 かぶり物や服装については、当時の文化習慣も影響しています。 ですから、今日それをそのまま当てはめることはできません。 しかし、そのねらいと目的を理解することは大切です。 同じ章に聖さん式への招きが出てきます。その中に以下の表現があります。 「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。(28~29節)」 「自分自身を吟味する」ということが勧められています。 主の前に出て、自分の信仰の姿勢、内心の振り返り、悔い改めと感謝の決意をしようということです。 聖さん式の時だけでなく、日々「自分自身を吟味」しているでしょうか。 祈り:神様、私の生き方、信仰の姿勢、動機を探ってください。主に喜ばれない 習慣や思いがあるなら気づかせてください。主の前に出て、素直に悔い改め、感謝をささげることができますように。「自分自身を吟味」させてください。アーメン

Iコリント10

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。Iコリント10:13 このことばに支えられた方のあかしを聞くことがあります。 私自身も、先が見えなくなりとても辛い思いをした時、「脱出の道も備えてくださっている」というみことばにすがるように過ごしました。 人として来られ、十字架への道を歩まれたイエス・キリストは、誰よりも厳しい試練を通られました。 だから、私たちの出会うどんな試練も理解し、共に寄り添ってくださいます。 そして、私たちには思いもよらない脱出の道へと導いてくださいます。 時には、私たちの思考や期待を変えるという方法も取られます。 祈り:神様、あなたが私たちを愛し、試練とともに脱出の道を備えてくださることを信じます。イエス様が私の試練と嘆きを誰よりもよくわかってくださることに感謝します。 人として来られ、私たちの弱さや限界を共に通ってくださったイエス様をお迎えするクリスマスの意味を、多くの方が知ることができますように。アーメン

Iコリント9

「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」Iコリント9:25 アスリートの生活を取材したドキュメンタリーを見ることがあります。 栄養や筋肉トレーニング、寮生活など、華々しい活躍の影には、隠れたところでの日々の節制と努力があることに感動し、尊敬します。 しかし他人事ではなく、クリスチャンの生き方がアスリートにたとえられているのは興味深いことです。 競技にたとえた表現は、聖書の他の部分にも見られます。 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル12:1 「また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。」2テモテ2:5~6 アスリートのように、パウロの覚悟のように、私たちもその姿勢とスピリットを学ぶことができるのです。 そう考えると、小さい日々の事柄も神様のわざにつながると気づき、励まされます。 祈り:神様、競技をするアスリートのように、日々の信仰生活が私たちの筋肉トレーニングであり練習であることを覚えます。試練やトラブルも、信仰の筋肉を鍛えるためにあなたが用いてくださると信じます。主にある脱出も都度経験させてください。アーメン

Iコリント8

「あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」Iコリント8:12 キリストを救い主として信じるなら、原則的には自由が与えられます。罪のなわめから解かれ、聖霊の働きのまま、ありのままで生きることができるようになります。 同時に、霊の兄弟姉妹、家族が与えられます。 ここでは、その家族へのつまずきとなることを避けるようにと教えられています。 それぞれが良心を与えられていますが、育った環境や文化などでその思いには多様性があります。 霊の兄弟姉妹を愛するなら、愛をもって弱い人の良心に配慮するということです。 教会では、弱いところのある人を見捨てたり見下げたりすることはありません。 かえって、皆が謙遜と愛と配慮を学びます。 それは、家畜小屋で生まれてくださったキリストがそうしてくださったからです。 羊飼いも見捨てられず、貧しい人も見下げられませんでした。 祈り:神様、私たちに愛と配慮の心を与えてください。イエス様が弱い者を愛し心をとめてくださったように、私たちも必要のある人に寄り添い、理解し祈ることができますように。アーメン

Iコリント7

「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」Iコリント7:7 「結婚はまだ?」「お子さんは?」「二人目は?」… 世間ではこのような会話が平気でなされます。 もしかすると、挨拶程度に考えて軽く質問し、相手を深く傷つけている場合があるかもしれません。 結婚するのとしないのと、どちらがよいのでしょうか。 子どもがいないといけないのでしょうか? 聖書ははっきりと、それらが神様の召しであると述べます。 今の境遇は自分で選んだと思っているかもしれませんが、神のゆるしと召しのうちにそうなっています。 38節にも「ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです」と書かれています。 祈り:神様、あなたが私の今の境遇を与えてくださったと受け取ります。 結婚や家庭について、人との比較や世間体に左右されないよう助けてください。 あなたの召しがなりますように。アーメン

Iコリント6

「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」Iコリント6:19 心身の健康に気をつける理由の一つがここにあると思います。 大切なゲスト、大好きな来客が滞在するときは、部屋をを掃除しリネンを整え、気持ちよく過ごせるように心を配ります。 同じように聖霊が住まわれるなら、私たちのからだを良いコンディションに整えなさいということだと思います。 老いや病気は避けられません。しかし、生活習慣や適切な休息、ライフスタイルは神様が管理をゆだねておられます。 今年もあとひと月。忙しい年末に向け、どのように生活を整えることができるか、考えたいと思います。 祈り:神様、あなたがくださった身体と日々の生活を感謝します。自分の心身の疲れや限界に気づかせてください。主の前に憩い、日々重荷を下ろすライフスタイルを教えてください。アーメン

Iコリント5

「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」Iコリント5:6 コリント教会の中には、罪をそのまま放置しているという状況がありました。 パウロは戒め、パン種にたとえて問題が大きくなることを指摘しています。 教会の中もそうですが、私たち一人一人の心の中も同じようだと思います。 小さな罪深い思いが、どんどんと偽りやごまかしを生むことがあります。 また、小さな傾向が大きくなって大問題になることもあります。 病的なものは医療の助けが必要ですが、そうでないものも気づいたら祈り、また誰かに祈ってもらうことが大切です。 心の中にパン種がないか、今日思い巡らしてみましょう。そして悔い改めましょう。昨日の聖さん式も、そのような機会を与えてくれています。 祈り:神様、心の罪深い思いや傾向を聖霊により気づかせてください。意識的な思い、無意識の思いの中にあなたに望まれないものがあるなら悔い改めます。どうかパン種が大きくならないうちに取り扱ってください。アーメン

Iコリント4

「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」Iコリント4:5 パウロは、コリント教会の人たちへ福音の管理者についての説明をします。 管理者に要求されるのは「忠実だと認められること」(2節)です。 その基準は人ではなく神です。 だから、やがて主がさばかれるので、それまでは何についても先走って判断してはならないということです。 コリントの人たちは、どうやら派閥やグループを作りがちだったようです。しかし、それらは福音のためには何の役にも立ちませんでした。 教会で私たちが「推す」のはイエス・キリストだけです。人を推す派閥ではなく、キリストを愛し従う者の集まりが教会です。 祈り:神様、コリントの教会も今日と同じような人々の集まりでした。この手紙の助言が、今日の私たちへも様々なことを教えてくれることに感謝します。聖書のことばは生きていて力があり、私たちの心の奥まで刺し通します。私の心の深いところを、みことばで照らしてください。アーメン