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マタイ14

「それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。」「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」マタイ14:13, 23 バプテスマのヨハネが殺されたことを知ったイエス様は、ひとりの時間を持とうとされました。父の神の前に祈り思いを注ぎ出すと共に、悲しむ時が必要だと思われたのかもしれません。 しかし、群衆は追ってきました。イエス様は邪魔だと追い払うどころか、「彼らを深くあわれんで(14節)」、癒しや五千人に食物を与える奇跡をなさいました。 その後、再び一人になる時間を持たれたのでした。 疲れた時に限って、大切な相談や用事が入る経験はありませんか。 私たちの肉体は有限です。不必要なことにはノーということが大切です。 しかし、神様の促しを感じるなら、それに従うことも時に必要です。みこころなら、神様は力を与えてくださいます。 それらを見分ける霊的な洞察力が、特に暑いこの夏、日々神様から与えられますように。 祈り:神様、あなたの深いあわれみと知恵に感謝します。今日、私が何を選びとることがあなたの御思いでしょうか。教えてください。祈りによって必要なことに焦点を定め、他の人っがもっと上手にできることにはノーと言うことができますよう、導いてください。アーメン

マタイ13

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」マタイ13:44 デイキャンプが明後日になりました。ある方が、「子どもたちのために、ここまで多くの方が祈り関わっておられるのですね」と言ってくださいました。 当日の実働はさておき、多くの方が子どもたちを祈りに覚えているということが、キャンプの醍醐味だと思います。 それは、子どもたちに天の御国を伝えたいからです。 「畑に隠された宝」のように、天の御国はすぐそこにあるのに置き去りです。 「ここだよ」と紹介してくれる人がなかなかいないからです。 一度紹介されれば、それを掘り出すか放置するかは紹介された側の責任です。 子どもたちに紹介する機会を持てるのは大きな喜びです。 もちろん、教会での楽しい思い出は心に一生残ります。今すぐでなくても、必ず芽を出すと信じます。 ぜひ続けてお祈りください。 祈り:神様、天の御国の価値が私たち自身にももっとわかるようにしてください。デイキャンプや、各教会、団体で行われる夏のイベントに聖霊の働きがあり、祝福がありますように。子どもたちにケガなく、楽しく、キリストの臨在が感じられる一日となりますように。アーメン

マタイ12

「人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」マタイ12:12 パリサイ人たちは、聖書以外にもたくさんの律法を定め、「あれはだめ、これはだめ」と教えていました。 安息日には労働をしてはならないという教えは、今日でもユダヤ教徒が守っています(エレベーターのボタンを押すのも「労働」なので、安息日には各階停止の自動運転になります)。 空腹を満たすために穂を摘むのもだめ、病をいやすのもだめだというのはおかしい、とイエス様はおっしゃいました。 なぜなら、イエスが神ご自身であるのに、彼らが神を礼拝する目的と手段を取り違え、逆にしていたからです。 笑い話のようですが、自分自身や教会の中にも同じことがないか、考えさせられます。 自分の好みやこだわりが律法になっていないか、自問すると思い当たります。 神があがめられ、神を喜べるなら、ほとんどのことは二の次、三の次だと自分の心に言い聞かせています。 祈り:神様、私たちの無用なこだわりを許してください。肉から出てくる_____の思いを認めます。それらが聖書の原則に優先することがないよう、助けてください。家庭でも教会でも、こだわりより主の愛を選びとれますように。アーメン

マタイ11

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28 ヨハネの弟子たちとのやり取り、そして悔い改めない町々への叱責のあと、イエス様は祈られます。 「父よ、あなたをほめたたえます。」「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに表してくださいました(25節)」。 イエス様は活躍する人、うまくいっている人だけのための方ではありません。 むしろ「疲れた人、重荷を負っている人」に目を留めて招き、休ませてくださる方です。 それはイエス様ご自身が「心が柔和でへりくだっているから」です。私たちはイエス様から学び「たましいに安らぎを得」るのです(29節)。 今日、このお方のもとに安らぎましょう。 祈り:神様、連日の暑さと心にかかることごとの中、疲れを覚えています。イエス様のもとに憩わせてください。体調を崩している___さん、____さんにいやしがありますように。アーメン

マタイ10

「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」マタイ10:31 教会の庭に、最近茶色い鳥がやってきます。雀よりは少し大きく、チュルチュルとかわいい声で一生懸命鳴きます。 名前も知らなくて、「ミソサザイ」かと思ったらどうやら「カヤクグリ」?のようです。 キリストの弟子となった時、様々な困難に直面することがあります。中でも辛いのが、信仰や福音ゆえにばかにされたり、拒絶されたりすることです。 謙遜はよいものですが、、自己肯定感まで下がる必要はありません。 なぜなら、神の目には隠れているものはなく、私たちには雀より価値があるからです。 たとえ名前も知らないような地味な鳥であっても、神様は生かし、養っておられます。 私たちのことを忘れることは決してありません。 祈り:神様、あなたの目に価値あるものとして扱ってくださり感謝します。健康的な自己肯定感を養ってください。教会の近所や一人一人の地域で人生に絶望している人のところに、永遠のいのちと希望の福音を届けさせてください。アーメン

マタイ9

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、063弱り果てて倒れていたからである。」マタイ9: 中風の人のいやし、マタイの召し、パリサイ人との対決、皮袋のたとえ、会堂司の娘の生き返り、長血の女性のいやし、目の見えない人のいやし、悪霊追い出し、働き手が足りないこと... 今日も1章の中に目まぐるしいほど多くの内容がつまっています。終わりまで読むと、前半に何が書かれていたか忘れるほどです。 イエス様のなさったわざが豊かで、マタイが聖霊に導かれて書き留めたからです。 もっとも、私たちの一日もアップダウンの繰り返しかもしれません。 朝には思ってもみなかったことが昼に起こり、夜には感情が逆転し、寝るときには朝どんな気持ちだったかを忘れています。時には、話した言葉さえ忘れています。 イエス様はどんなに多忙で疲れていても、「群衆を見て深くあわれまれ」ました。それだけでも、この方が人間であると同時に神でもあることに気づくと思います。私のように自己中心ではなかった。この地上に来られた神の目的に一貫して立っておられたのでした。 祈り:神様、私の自己中心的な思いをゆるしてください。一日をふりかえると、あなたの助けなしには進めません。最近話した___さん、____さん、そして教会の___さんへの配慮のなさをゆるしてください。あなたの愛とあわれみでおおってください。アーメン

マタイ8

「すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。」マタイ8:34 ツァラアトの人、百人隊長のしもべ、ぺテロの姑、その他の人の病気を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静められたイエス様。 ところが、ガダラ人の土地では、追い出された悪霊が豚の群れに入り、群れが湖になだれ込んで死にました。豚を飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、一部始終を町の人に知らせました。 あまりにも驚いて怖くなったのでしょうか。町中の人はイエスに会いに来たにもかかわらず、癒しや解放を求めませんでした。どうか立ち去ってほしいと「懇願した」のでした。 ばかげているでしょうか? しかし、今日でも福音に対して同じような反応があります。イエス様が十字架にかかってくださったのに、「立ち去ってください」という反応があります。 また私たち自身には「ここはイエス様は結構です」とお断りしている部分がないでしょうか。どんなタイミングで、どこにイエス様が来られても、喜んでお迎えできるでyそうか。 祈り:神様、私の心の奥深くまで探ってください。 イエス様の福音を最近聞いた___さん、____さんが、心の扉を開くことができますように。アーメン

マタイ7

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」マタイ7:12 まもなくパリオリンピックです。漫然と見るだけでなく、祈りの機会として与えられていることに感謝します。 「ラブ・フランス(Love France)」 https://www.france1million.world/ja/prayer-guide/ など、多くのクリスチャン団体が祈りの課題や現地での働きを行っています。 互いに批判したりあらを探したりするのは簡単です。 しかし、イエス様は 「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです(1~2節)」 と言われました。 そして、 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です(12節)」 と教えてくださいました。 祈り祈られることは、私たちが愛を示すよい方法です。神様のもとに問題を持っていき、私たちの思いを越えた働きに、共に期待することだからです。 祈り:神様、さばくのではなく祈りあう心を与えてください。オリンピックには、教会の近隣出身の代表選手たちも参加します。地域に建てられている教会として、覚えて祈ります。彼らと家族に神様の愛が届き、やがて主の愛の使節として用いられますように。アーメン

マタイ6

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6:33  主の祈りが教えられ、偽善が戒められ、宝のあるところに心があることや、空の鳥さえ神が養っておられることが示されます。 そして、「神の国と神の義を求めなさい」と続きます。 なぜなら、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられ」るからです。 単純なことですが、この単純なことを信じるのは案外難しいです。 「明日のことまで心配しなくてよい」と言われる主のことばを、自分自身への個人的な語りかけとして聞くことができるでしょうか。 祈り;神様、私の信仰を強めてください。あなたが私に語っておられることばに耳を傾けることができますように。アーメン

マタイ5

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5:44 「八つの幸いな態度(3~10節) 」や「地の塩、世の光(13-15節)」の有名な内容を含む章です。福音書にはよくあることですが、その密度の濃さに、一度に読みきるのが心残りなほどです。 様々な教えがぎゅっとつまっていますが、すべてを守ることができる人はいるのだろうかと思ってしまいます。 そして、イエス・キリストだけがこれを完全に守り歩まれました。彼の生き方は、最後までご自身の教えにかなったものでした。 十字架の上でさえ、自分を死刑にした人たちのために祈られたのでした。 私たちの頼る方、見上げる方はこのお方以外にはありません。 祈り:神様、私たちに生きる指針を与えてくださり感謝します。何より、私たちが主とあがめる方が私たちを愛してくださることに感謝します。あなたの教えを受け取り、慰めと励ましを頂いて今日も歩みます。今身体の弱さを覚え、また心が痛んでいる___さん、___さんにあなたが豊かに語りかけてください。アーメン

マタイ4

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」マタイ4:19 イエス様は漁師のぺテロとアンデレに「人間をとる漁師にしてあげよう」と招かれました。すると彼らはすぐに網を捨てて従いました(20節)。 漁のプロであった彼らに、魚をとることよりも素晴らしいことに思えたのがイエス様の弟子となることでした。 同じように、多くの伝道者やクリスチャンが、何にもかえがたいこととしてイエス様の弟子となることを選びます。逃げではなく、イエス様に従う以上に素晴らしいことはないという積極的な動機によってです。 そして、イエス様に従う中で、それまでの仕事や経験が思いがけない形で主にあって用いられます。 ガリラヤ湖を舟で移動するときやイエス様が舟から岸へメッセージを語る時、漁で舟を出した経験が用いられました。3年間の移動生活には、漁で培った体力が必要だったでしょう。 今でも、謙遜な人の経験や専門が、教会を建て上げるために用いられています。 祈り:神様、主に従うことを選んだ人に導きと備えを与えてくださることに感謝します。謙遜に主に仕えさせてください。今日の礼拝と洗礼式を心から感謝します。アーメン

マタイ3

「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」マタイ3:11 バプテスマのヨハネはエリサペツの子であり、イエスの親戚でもありました。 年齢が近いこともあり、互いによく知っていたかもしれません。 バプテスマのヨハネが偉いところは、自分の分をわきまえていたことです。 彼はイエスがどのような方(神の子)かを知っていて「私の後に来られる方は私よりも力のある方です」と明言しました。 同い年の親戚、級友、自分と似た環境の人とは、つい自分と比較しがちです。 しかし、それぞれに神のご計画があることを受け取ると、比較に意味のないことがわかります。 バプテスマのヨハネには、ダビデに対するヨナタンのような麗しい人格を感じます。 祈り:神様、私を比較のわなから解放してください。人を表面的な才能や賜物で判断することがないように助けてください。あなたが私に与えてくださった多くの恵みに感謝します。主の栄光のために用いさせてください。アーメン

マタイ2

「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことが成就するためであった。」マタイ2:14~15 博士たちが来て贈り物をささげて礼拝した...という平和な時から、緊急事態への 変化を記しています。家族はヘロデ王の殺戮計画を逃れるため、エジプトに避難しなければなりませんでした。 しかし、それは預言が成就するためには必要でした。神の大きなご計画のうちにイエスと家族は守られました。 そして、博士たちの贈り物は、エジプトでの避難生活を支えただろうとも言われています。 私たちも、「なぜ」と思うような状況の変化にうろたえ戸惑うことがあります。 すべてが神の御手で備えられている、と信じることができうでしょうか。 神のご計画のうちにあるという信仰と希望が与えられますように。 祈り:神様、なぜこんな状況にと思う中にも、あなたの完全な計画が働いていると信じます。私の小さい理解ではわからないことをゆだねる信仰を与えてください。わたしの歩み、教会の歩みが主によって導かれていくことに安らぎます。アーメン

マタイ1

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」マタイ1:17 昨日まで読んでいた詩篇の主な作者、ダビデの名前が今日も出てきました! 1節~17節には旧約聖書の多くの名前が出てきます。まるで卒業アルバムを開くように、親しく見慣れた名前、あまり知らない名前が並んでいます。 脈々と系図がつながり、約束どおりダビデの子孫としてキリストが地上に人として生まれたことを記しています。 マタイは、神であるイエス・キリスト、同時に人でもあったということを証明しつつ、キリストの福音を伝えようとしています。 祈り:神様、イエス・キリストが神として、同時に人として約束どおり来てくださったことを感謝します。私も、聖書の約束に信頼し待ち望む者となれますように。長年祈りの答えを待っている____さん、____さんに、今日も主への希望と信仰が豊かに与えられますように。アーメン

詩篇150

「息のあるものはみな  主をほめたたえよ。  ハレルヤ。」詩篇150:6 ヘンデルのハレルヤコーラスのクライマックスが浮かんできます。 聴衆が起立して神様をほめたたえる「ハレルヤ、主は王の王」という歌詞を味わいます。 天国では、どんなハレルヤコーラスがささげられるのでしょうか。 そんなことを思いながら、ふと天国まで待つ必要はないということに気づかされます。 すでに神の国は私たちのただ中にあり(ルカ17:21)、天国の前味をすでに味わっているのです。  だからこの地上で、今日この瞬間も、息のあるもの(生かされているもの)として主をほめたたえることができます。 聖書の詩篇も、黙示録も、神様を賛美する言葉でしめくくられていることも、私たちを賛美へと励ましてくれます。 祈り:神様、私たちにとって幸いなのは、あなたを今ほめたたえられることです。すでにこの地上で、あなたを礼拝し賛美しと、天国と同じことができる幸いにもっと着目させてください。小さな日々の出来事の中に、あなたの恵みを発見し、受け取り、感謝し、分かち合う者になれますように。アーメン *明日からは新約聖書に入ります。

詩篇149

「踊りをもって 主の御名をほめたたえよ。    タンバリンと竪琴に合わせて 主にほめ歌を歌え。」詩篇149:3 近頃はダンスが人気で、レッスンに通ったり、あちこちで大会が行われたりしています。オリンピックの種目にもなったとか。 日本でダンスを恥ずかしがっていた時代は、過去のことになったようです。 イスラエルでは子どもたちだけではなくひげをはやした男性たちも踊り賛美していたのでしょうね。王であるダビデさえ、力の限り賛美し躍りました。 アフリカの教会に行くと、身体の中からリズムがあふれ出るように会衆が踊っています。昨日はイエス様の弟子たちのコンサートで素晴らしい賛美がささげられました。 5節では「敬虔な者たちは栄光の中で喜び踊れ」と言われています。 ひざまずき、ひれ伏して祈っているだけではありません。敬虔だからこそ、「喜び踊る」のですね。 手を上げたり、踊ったり、賛美にいろんな表現があることもこれまた恵みです! 祈り:神様、それぞれのスタイルで賛美できることを感謝します。批判したり自意識過剰になったりせず、神様に最上の賛美をささげることができますように。アーメン

詩篇148

「地において主をほめたたえよ。 海の巨獣よ すべての淵よ。   火よ 雹よ 雪よ 煙よ。みことばを行う激しい風よ。」詩篇148:7~8 「すべてのものよ、賛美しよう!」と招く詩篇です。 人に限らずすべての被造物に例外なく、賛美しようと呼び掛けています。 考えてみれば、全宇宙にあるすべてのものは、造り主である神を賛美するために存在すると言えるかもしれません。 被造物は罪の世界で「今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています(ローマ8:22)」。それゆえ自然がすさみ、災害が起こります。 しかし、神が世界を創造されたのは苦しめるためではありません。自然も人も、神にあって喜び楽しみ、神の栄光を表すことがみこころです。 祈り:神様。梅雨の大雨による被害から、各地をお守りください。人間の無知で無茶な自然の用い方や罪ゆえに痛んでいる世界です。あなたのよい管理者となれますように。今日のチームによるコンサートと交わりが祝福され、来られる方に恵みが豊かにありますように。来れないけれど祈りで支えてくださる人たちにも同じ恵みがありますように。アーメン

詩篇147

「ハレルヤ。 まことに われらの神にほめ歌を歌うのは良い。 まことに楽しく 賛美は麗しい。」詩篇147:1 中高ユースを中心に、有志での賛美バンド練習が行われています。 これから楽器を始める人も加わり、とても楽しそうです。 ハンドベルチームも毎月2回、練習を続けています。こちらも毎回楽しそうです。 賛美は主にささげるものであると同時に、「楽しい」ことでもあることが、1節を見るとわかります。 面倒くさそうに歌うのは賛美とは言えません。自分の技術を見せびらかすのも賛美とは言えません。逆に、小さな声でも心からささげているなら、それは主への麗しいささげものです。 「主は心の貧しいものを支え(6節)」、「神は馬の力を喜ばず 人の足の速さを好まれない(10節)」方です。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)。 神様の前にへりくだり、自分の心を向けて賛美を「ささげる」人を、主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたに賛美をささげます。私の心が喜んであなたを見上げることができますように。今日の礼拝も導いてください。賛美のために練習している人たちを祝福し、あなたの栄光のために用いてください。アーメン

詩篇146

「虐げられている者のためにさばきを行い 飢えている者にパンを与える方。 主は捕らわれ人を解放される。」詩篇146:7 主は虐げられている人や捕らわれた人を救うことができる方です。 「あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を(3節)」とあるとおり、人には限界があります。 旧約聖書のハバクク書を読むと、預言者ハバククは人にではなく、神様に直接不満や怒りをぶつけています。どうして悪者がなかなかさばかれないのか、と。 彼の根底には「主がすべてを治めておられる」という信頼があります。 だからこそ、どんなことでも主の前に述べることができました。 ダビデも同じ信頼を持っていました。私たちはどうでしょうか。神様の前にお利口な子どもを演じる必要はありません。そのままの姿で、心の思いや願いを持っていきましょう。 祈り:神様、ありのままであなたの前に出ます。私たちを律法的な態度から解放してください。家族や教会の中からさばく思いを取り去ってください。不完全な弱い者として、それでも主に愛されていることを感謝します。アーメン

詩篇145

「すべての目はあなたを待ち望んでいます。 あなたは 時にかなって 彼らに食物を与えられます。」詩篇145:15 聖書的な視点に立って整理収納をアドバイスしておられる方のお話を聞きました。 巷では「断捨離」や「モノに『ありがとう』と言って手放す」やり方が人気です。 しかし、信仰者としては、まず与えてくださる神様に感謝することが正しい態度だと学びました。 整理も、声に出して祈り、神に尋ねながら「必要なもの、必要でないもの」を分けることができるのです。 本来は、信仰者こそ、整理上手になれる機会を与えられているのだと思います。 主を待ち望む目、そして時にかなって与えてくださる神様への信頼が、迷いや執着から解放してくれます。 「倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こ(14節)」してくださる主に期待します。 祈り:神様、私が今日生きるのに必要なものを与えてくださり感謝します。 主が時にかなって満たしてくださるという信仰が、私自身にも、家族にも、教会にもあふれますように。主が託してくださったものを、主の栄光のために用いさせてください。アーメン

詩篇144

「主よ 人とは何ものなのでしょう。    あなたがこれを知っておられるとは。     人の子とはいったい何ものなのでしょう。     あなたがこれを顧みられるとは。     人は息にすぎず     その日々は影のように過ぎ去ります。」詩篇144:3~4 富士登山の季節です。多くの登山者が頂上を目指す姿は山に比べるととても小さく、蟻の行列のようにも見えます。 静岡に4年住みましたので、富士山は日常的に見えました。それでも、建物の影から急に姿が見えると、その大きさに驚いたものです。 それに比べて人は取るに足りないほどかもしれません。しかし、主はそのひとりも忘れてはおられません。私たちの日常の歩みをすべて知ってくださいます。 天を押し曲げて降りて来られ(5節)稲妻を放つ(6節)ほどの方が、私が自転車に乗るのも、買い物に行くのも、夕食を作るのも、床につくのも知っておられるのです。 今日の歩みは、主の心にかなっているでしょうか。自分の感覚や計算だけで動いていないでしょうか。どんな小さなことでも祈りに代えたブラザー・ローレンスのように、祈りを意識的にそこに置くことができたら幸いです。 祈り:神様、何よりも大きい方が、息のようにはかない私たちのことをよく知ってくださり感謝します。今日、一つ一つを祈りながらできますように。兄弟姉妹が計画している夏の旅行やレジャーも、神様に祈りながら自然の恵みを味わい、交わりを楽しむ時となりますように。アーメン

詩篇143

「私は昔の日々を思い起こし    あなたのすべてのみわざに思いを巡らし    あなたの御手のわざを静かに考えています。」詩篇143:5 ふりかえりの大切さは、多くの人が認識していると思います。 一般にも、行事やプロジェクトごとの良い点と反省点を自己評価する ことは、今後のために有益だと考えられています。 人生の歩みについても同じことが言えます。 節目ごとにふり返るわけですが、信仰者の場合は「自分が」という視点だけでなく「神が」何をなさったかもふりかえります。 地域の学校はもうすぐ夏休みを迎えます。また7月はちょうど今年の半分が過ぎた折り返しにいます。 「主のわざに思いを巡らし、主の御手のわざを静かに考える」ひとときを持てますように。 祈り:神様、あなたが私と周りの人々、そして教会にしてくださった数々のよいことに感謝します。ダビデが静かに思い巡らしたように、1日、1週間、1ヶ月、1年...と、節目ごとにあなたのみわざを思い巡らし、感謝のふりかえりへと導いてください。アーメン

詩篇142

「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し   私の苦しみを御前に言い表します。   私の霊が私のうちで衰え果てたときにも   あなたは 私の道をよく知っておられます。    私が歩くその道に     彼らは罠を仕掛けています。」詩篇142:2~3 洞窟にいたダビデのように、霊が衰え果てたと感じるときがあります。 子育て中で、礼拝に行っても満足にメッセージが聞けない時期や、 介護や闘病で疲れ果てた時がそうかもしれません。 聖書を読もうとするけれど、文字が無味乾燥な記号の羅列にしか感じられません。 信仰がなくなってしまったのだろうかと不安になります。 しかし、自分で進めなくなった時、敵が罠を仕掛けるような時でも、 主は「私の道をよく知っておられます」。 聖書を読んでよくわからない時期が続いても、がっかりしないでください。 神様はそんな私たちの弱さも知っておられ、導いてくださいます。 再びみことばが迫ってくる時が必ずやってきます。 祈り:神様、私がどんな状態でも導いてくださることに信頼します。 今、神様が近くに感じられない人に、主がすぐそばにおられ、決して見捨てることのない方だという事実を受けとることができるよう励ましてください。アーメン

詩篇141

「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように。」詩篇141:2 TV番組「ライフ・ライン」で、先日召された星野富弘さんの特集をしていました。 中学校の体育教師だった彼は、部活の指導中の事故で首から下が動かなくなりました。 絶望の入院生活から口に筆をくわえて絵を書き始めました。聖書の価値観、神のまなざしに基づいた彼の絵と詩は多くの人に影響を与えてきました。 毎年一般の書店でカレンダーが売られていたのをよく覚えています。 聖書の詩篇も、多くの葛藤や困難の中で生まれました。 聖霊によって書かれ、時代を越えて私たちを励まします。 祈りが、神様への香、ささげ物として描かれています。 手を上げて祈る詩人と同じく、私たちも天の神を仰ぐ祈りに招かれています。 祈り:神様、ざわざわした日々の中でも、目を上げて主に祈りをささげることができますように。私の口と心をお守りください。うわさや悪いことのためにではなく、あなたに祈るためにもっと使うことができますように。アーメン

詩篇140

「私の主 神 私の救いの力よ。 あなたは私が武器を取る日に 私の頭をおおってくださいました。」詩篇140:7 頭を守ることはとても大切です。避難訓練の時にも、頭を守る工夫をします。 ダビデは、周囲に敵が多くいる中、戦いの時には神様が頭をおおってくださると信頼しています。 夏のこどもキャンプで、「救いのかぶと」(エペソ6章)の絵を使う計画をしています。 私たちにとっても、キリストの救いがどれほど大切なことでしょうか。この救いなしには永遠のいのちを持つことができません。 霊的な存在として生きる上で、キリストとの出会いがいかに大切か、伝わることを願いつつ。 祈り:神様、あなたの救いと守りを感謝します。子どもたちの柔らかい心に、福音の種がまかれますように。聖書の神様が愛であり、ひとりひとりを愛してくださっていると知ることができますように。今年のキャンプにも子どもたちをお送りください。アーメン

詩篇139

「私が隠れた所で造られ   地の深い所で織り上げられたとき   私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。  あなたの目は胎児の私を見られ   あなたの書物にすべてが記されました。   私のために作られた日々が   しかも その一日もないうちに。」詩篇139:15~16 高校生キャンプに参加した時、希望者にはカウンセリングの時間がありました。正確には覚えていませんが、「部活をやめてから生きる意味がわからない」というようなことを相談したのでしょう。 カウンセラーが詩篇139篇を開き、「こう書いてあるでしょう」と一緒に読んでくださったことを鮮明に覚えています。 生まれる前から神様が知っておられる。まなざしを注ぐ価値のある存在だ。人生には神様のご計画がある。この約束は今日も真実です。共に受け取りましょう。 祈り:神様、あなたの愛と恵みに感謝します。私の人生に、あなたのご計画がなりますように。教会や団体でもたれる夏の各キャンプを祝福してください。参加者があなたの愛を受け取り、あなたの招きに応答することができますように。アーメン

詩篇138

「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。 主よ あなたの恵みはとこしえにあります。 あなたの御手のわざをやめないでください。詩篇138:8 主がすべてを成し遂げる・・・そんなことがあり得るでしょうか。困難続きの中では 疑ってしまいそうです。 しかし、パウロやぺテロも同じ信仰に立っていました。 パウロ:「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」(ピリピ1:6)  ぺテロ:「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(1ぺテロ5:10) 私たちは今日、どのように告白しますか。 祈り:神様、信じられない時に望みを捨てないでいる信仰を、私に与えてください。 苦労や試練を通っている____さん、____さんに、あなたからの励ましと強めがありますように。アーメン

詩篇137

「バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。」詩篇137:1 バビロンで捕囚になった人たちが故郷を思い出す様子に、思わずもらい泣きしそうです。 また、拉致被害にあった人たちと家族のためにも、祈らずにはおられません。日本だけでなく、韓国で拉致され帰国できていない人は500人以上にも及ぶそうです。 しかし4節の「どうして私たちが異国の地で 主の歌を歌えるだろうか」で終わる必要はありません。 なぜなら、たとえ異国や地の果てであっても、そこに主が共におられることを私たちは知っているからです。 竪琴を柳の木々に掛けて(2節)おくのではなく、それを手に取りましょう。 悔しさと涙の中にあっても、賛美をやめないことがみこころだと知っているからです。 祈り:神様、人生の底辺にいると思うような時でも、その深い底にキリストが共におられることを感謝します。さまざまな感情を横において、あなたに賛美ができるよう、導いてください。アーメン

詩篇136

「主の恵みはとこしえまで。」詩篇136:1~26 天地想像のみわざも、エジプト脱出も、荒野での導きも、そして日々の食物も、 すべてが主の恵みだと宣言しています。 ・主の恵みは一過性のものではありません。 「とこしえ」まで続きます。 ・主の恵みは、大きなことから私たちの個人的な必要にまで及びます。 天地、そして個人の食物や苦難、すべてを治めておられる主です。 祈り:神様、あなたの恵みに感謝します。大きい_______のこと、小さい個人的な_______のことが心にあります。 そこにも主の恵みが注がれると信じ祈ります。アーメン

詩篇135

「主は 地の果てから雲を上らせ 雨のために稲妻を造り その倉から風を出される。」詩篇135:7 梅雨で雨の日が続きます。なくてはならない雨ですが、降りすぎると災害につながりかねません。 どんなに科学が進んでも、人の力は自然に及ばないことを痛感します。むしろ、無思慮な開発が災害を引き起こす場合さえあります。 自然を造り、支配しておられるのは主です。 人の知恵や力が到底及ばない、知恵と力をもっておられる方です。 祈り:神様、あなたの素晴らしい知恵と力をほめたたえます。 そんなあなたが与えてくださった救いの道を感謝します。 キリストの十字架のみわざを覚えます。 一人でも多くの方が、キリストを救い主と信じることができますように。アーメン

詩篇134

「さあ 主をほめたたえよ。 主のすべてのしもべたち 夜ごとに主の家で仕える者たちよ。」詩篇134:1 「主をほめたたえよ」は「主を祝福せよ」という意味だそうです。私たちはいつも祝福を求めるだけでなく、祝福する側にもなるように招かれています。 なぜなら、信仰者はアブラハムと同様、自分が祝福されると同時に、祝福の基となり祝福を流し出す者とされました。源泉はもちろん神様です。 祈る時、つい「~ください」「お願いします」ばかりになりがちです。しかし、神様をほめたたえることも、祈りの大切な要素であることを覚えます。 祈り:神様、近視眼になりがちな私の祈りを広げてください。不足と願いを申し述べるだけでなく、感謝や祝福、賛美を与えてください。アーメン