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ヨハネ6

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」ヨハネ6:48 日本では、信仰を持つのに時間がかかったり、しばらくすると教会生活から離れてしまう人が多いと聞きます。 しかし、日本だけの話ではありません。 モンゴルでは、新しく福音を聞いて受け入れるのは簡単だけれど、また別の新しい教えが入るとそちらに心を向ける人が多いのだと聞きました。 欧米でも信仰から離れる人がいるそうです。 私たちの土台が、岩の上に家を建てた人のようになるにはどうしたら良いでしょうか。 神のことばに根ざすことです。人や状況は変わるし、当てになりません。 変わらない神ご自身に土台を置くことです。 祈り:神様、私たち一人一人があなたのことばに基礎を置くことができますように。洪水や嵐にも流されない土台を置けるよう導いてください。アーメン

ヨハネ5

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ヨハネ5:24 イエス様の生涯は、徹底してご自身を遣わされた方ー父なる神様ーのみこころを行うこと、父に栄光を帰すことに集中したものでした。 神ご自身が人として来られ、神のみむねを体現してくださったという信じがたい恵みなのです。 イエス様がそうされたなら、私たちはもっと自分自身でなく神に栄光をお返しするよう歩みたいと思わされます。 小さな手柄(手柄とも言えないような)を自分のものにせず、神のものにすることが習慣となりますように。 祈り:神様、あなたのお名前だけがあがめられますように。あなたの栄光のために、大胆になれますように。あなたが願われることに集中できますように。アーメン

ヨハネ4

「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ4:50 まだ見ないものを、どうして信じることができるでしょう。 見えない神を、どうして信じることができるでしょう。 それが今日の多くの人の問いです。 しかし一方で、フェイクニュースや噂には惑わされてしまいます。 王室の役人は、カペナウムからガリラヤまでやって来て、息子の癒しを願いました。 カペナウムまで来てほしいと言う役人に、イエス様は「行きなさい」とことばを与えました。 信じるまでに、彼の内側にどのような葛藤と心の変化があったでしょうか。 それでも、その人はイエスが語ったことばを「信じて」帰って行きました。 それが信仰です。 私たちも、聖書のことばにかけてみよう、信頼してみようと思いませんか。 祈り:神様、信仰は理屈でなく「いっぺんそうしてみよう」という選択だとも言えます。私たちの小さい理性ではわからないことも、あなたはご存知です。私の親戚や友人が、聖書のことばに信頼してみよう、と選択することができますように。アーメン

ヨハネ3

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16 再び、「聖書の中の聖書」と言われる節にきました。 神の愛、そしてイエス・キリストを救い主だと信じる者が受ける恵みが表れています。 ゆっくりと声に出して読み、味わいたいと思います。 祈り:神様、あなたの愛と恵みを感謝します。福音がもっとよくわかるよう、聖霊様働いて助けてください。アーメン

ヨハネ2

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネ2:11 世話役はいきさつを知らず、花婿をほめました。 しかし、給仕たちはイエス様が水をぶどう酒に変えたと知っていました。 宴会の場で一時的に花婿が持ち上げられたとしても、 真に栄光をとられたのはイエスでした。 主に用いられる人が一時的に目立っていたとしても、 それはその人が偉いからではありません。 主が栄光をとられるためです。 舞台裏で仕えていても、そこが一番主の栄光を間近に見ることができる場所かもしれないのです。 祈り:神様、どの場所であっても主に仕える喜びを与えてください。キリストの栄光を見せてください。アーメン

ヨハネ1

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」ヨハネ1:16 その理由は、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したから(17節)」だと、ヨハネの福音書は語ります。 いくら分けてもなくならない、満ち満ちた豊かさと恵みの大きさは想像もつきません。 その恵みの中に入れられている恵みを感謝しつつ。 祈り:神様、あなたの豊かさと恵みが限りなく、主を見上げる者に注がれることに感謝します。この素晴らしい恵みに一人でも多くの方が気づきますように。アーメン

ルカ24

「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」ルカ24:45 そうして、次のことを言われました。 「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(46~48節) イエス・キリストこそ、聖書を悟らせてくださる方です。 聖書が難しい、と嘆かず、霊的な目と心を開いていただけるよう願いましょう。 光が差すように、少しずつ主の霊が働いてくださいます。 祈り:神様、聖書を理解したいのに難しいと感じることがあります。知性だけでなく、霊性でわかるように助けてください。私の霊の目を開いてください。アーメン

ルカ23

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」ルカ23:34 ローマ帝国の遺跡は世界遺産となり、素晴らしい価値があると考えられています。 現代も現役で使われている橋や門すらあるそうです。 しかし、その帝国の支配下で十字架刑が執行されていたのでした。 イエス様が十字架の上でこのように祈られたことを、ともすれば軽く読み流してしまいます。 しかし、私自身が「衣を分けるために、くじを引いた」者の一人であったと考えたことがあるでしょうか。 イエスに無関心、十字架に無関心であったローマの兵隊や大部分の群衆のように、私たちも福音に無関心であった者でした。 それでもイエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈り招き続けてくださったのです。 祈り:神様、十字架の出来事が今も同じように救いの価値があることを覚えます。イエス様の祈ってくださった愛と時代を超越した恵みに感謝します。アーメン

ルカ22

「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」ルカ22:20 イエス様が十字架で血を流されたことにより、新しい契約がもたらされました。 それは、古い律法によるのではなく、いのちを与え、みずみずしく、解放と自由をもたらすものでした。 新しい契約により、聖霊が自由に働かれ、一人一人に与えられました。 ペンテコステの日、聖霊にある自由を味わい感謝しましょう。 祈り:神様、すべての鎖や罪の束縛から自由にされたことを感謝します。聖霊がくだってくださったことを感謝します。ペンテコステの感動を新たにすることができますように。アーメン

ルカ21

「あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」ルカ21:4 再び2レプタ銅貨をささげたやもめの記事が出てきます。 この女性は、この後どうなったでしょうか。 聖書は沈黙していますが、きっとその生活は守られたことでしょう。 なぜなら、イエス様が目を留めてくださったからです。 自分の手にあるものだけを眺めているか、 天の宝を見上げるか、 今日の私の目線はどちらでしょうか。 祈り:神様、私の目線が天を見上げるものとなりますように。アーメン

ルカ20

「律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。」ルカ20:19 律法学者と祭司長たちの特徴は、いつも「人」を恐れたことでした。 人の評価、人の評判、人の歓心をかうことにばかり意識が向いています。 一方、イエス様は「神」を恐れることで一貫しておられます。 ぶれることなく、焦点が定まっていたことがわかります。 私たちの関心はどこにあるでしょうか。 神に喜んでいただくことでしょうか、それとも人情や人の目に偏っているでしょうか。 祈り:神様、私の視点をあなたに定めることができますように。主が喜ばれるかどうかが、私の判断、決断の基準になりますように。今岐路に立たされている___さんが、祈りつつ主のみこころを受け取れるよう、格別の励ましを注いでください。アーメン

ルカ19

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10 ザアカイについての記事はわずか10節足らずです。 にもかかわらず、しばしばメッセージで語られ、子どもでもおとなでも印象に残るキリストの出会いについての話です。 情景が浮かびます。 背の低いザアカイ、金持ちだったけれども嫌われており、苦肉の策で木に登った彼の姿は、私たちに共感を与えます。 考えてみれば、誰しもザアカイのような側面があります。 劣等感、不全感、それを埋めようと求めていること、キリストに知られているという喜び、悔い改め、すべてが新しくされたこと、心の一新が行動にも表れること。 「キリストは、失われた私を捜して救うために来られた」という恵みを受け取りましょう。 祈り:神様、私のためにイエス・キリストが地上に来られ、十字架で罪をあがなってくださったことに感謝します。キリストの霊である聖霊によって、今日も導かれていkたいです。アーメン

ルカ18

「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」ルカ18:14 パリサイ人よりも、胸をたたいて祈っていた取税人が義と認められた、というたとえ話です。 パリサイ人の行いは一見立派でした。ところが、心の中は高ぶっており、自分の義を行いで証明しようとしました。 一方取税人は、自分の心の醜さと罪深さを自覚し、悔い改めと赦しを乞う祈りをしました。 つい他人にいらいらしたり、自分のやり方が正しいと思いがちな時には、肉に任せて自分を高くしている時かもしれません。 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という聖書の原則を、心にとめておきたいと思います。 祈り:神様、他人をさばかず、へりくだる心を与えてください。あなたの恵みで赦された罪人であることを思い返し、感謝とあわれみの心をいただきます。アーメン

ルカ17

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」ルカ17:10 これだけやったのに報われないなあ、と感じることがありますか。 仕事では、要領のよい同僚がどんどん出世し、後輩の給料が上がっていくのに、自分は取り残されているように思えることがあります。 一生懸命子育てをしても、子どもが反抗してしまうこともあります。 家事も、やってもやっても終わりがありません。 もしかすると、教会の奉仕や信仰生活までも、同じような気持ちになることがあるかもしれません。 しかし、神様に対してするのは喜びが動機であり、恵みへの応答が原動力です。 「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えるでしょうか。 もし言えないなら、肉でやり過ぎているか、人の評価を求めているかかもしれません。 心を探り、主が何を望まれるかを共に吟味しましょう。 祈り:神様、一生懸命伝道した___さんの反応がよくなかったり、奉仕が思うように喜ばれなかったりすると落胆してしまいます。あなたの前に、心から仕えるしもべとなりたいです。私の心を探ってください。アーメン

ルカ16

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」ルカ16:15 「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた」 (14 節)と書かれています。 当時の教師たちがお金の多少で動いていたのは、神のみこころからずれていることですね。 今も多くの「宗教」でお金目当てと思われるものがあります。 もちろん、お金は日常生活に欠かせないものです。 しかしそれ以上に「主は心を見られる」ということを、私たちイエス・キリストを信じる者は覚えていたいと思います。 たとえつましい生活でも、心を寄せ合い暮らす人々は、周囲にとっての光であり励ましです。 くよくよしないで、与えられているものを感謝し満たしを信じて歩みましょう。 祈り:神様、生活ぶりを比較して落ち込むことがありませんように。自ら働き、主が備えてくださるものを感謝して受け取り、祈りつつ知恵をもって用いていくことの喜びと恵みを一人一人が体験できますように。アーメン