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10月, 2024の投稿を表示しています

使徒17

「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」使徒17:26~27 テサロニケで難にあい、ベレアではテサロニケからの追っ手が群衆を扇動して迫害しました。 さらにアテネに移動したパウロでしたが、そこでも彼は福音を語り続けました。 彼のメッセージの中には、生かされている場所と時代が決まっているのは、神を求めるためであるということが語られています。そして、神は私たちの近くにおられることも話されています。 私たちが今日、日本に生かされているのもまた、神を求めるようになるためです。 「なぜここにいるのか」という存在の問いへの答えがあります。 祈り:神様、生きている意味を問うとき、それはあなたが意図をもってこの時代、この場所に置かれたからである、と答えられることを感謝します。 生き甲斐を失っている人が、キリストに出会い、生きる意味を見いだすことができますように。___さん、___さんを覚えてお祈りします。アーメン

使徒16

「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』」使徒16:31 木曜集会で、テサロニケ人への手紙第一を読んでいます。 テサロニケに行く前、パウロとシラスはティアティラで投獄されていました。 しかし、その投獄を通して他の囚人や看守の家族に福音が届きました。 むち打ちと獄中での暮らしは身体的には過酷でしたが、それさえも益に変えられました。 どこかに不調を感じているでしょうか。たゆまずあきらめず、主に期待しましょう。何よりも、この福音には永遠のいのちが明確に示されています。 人が本当に必要なものが提示されているのです。 祈り:神様、あなたのあわれみと、困難を益に変えてくださる恵みの大きさに感謝します。いやな思いをした時も、落ち込まずあきらめず、主を見上げ続けます。___さん、___さんを励ましてください。アーメン

使徒15

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」使徒15:11 今日、教会には様々な人が集っています。生まれも育ちも、現在の環境もさまざまです。 初代教会も同じでした。 教会の中に多様性があるのは良いことです。教会の幅が広げられ、多くの人に福音を届けることができるからです。 ところが、元パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った(5節)のでした。 経験や過去の常識に固執し押し付けようとする時に、教会にひずみが生じます。 エルサレム教会で起こった問題は、律法はキリストが成就されたことと、福音が異邦人にも無条件の恵みとして与えられることを軽んじていました。 救われる前の宗教、前に集っていた教会、家庭でしつけられたこと、職場の常識... それを今の教会に当てはめること、比較することはひずみを生みかねません。 エルサレム教会は、最低限の共通認識で一致しました(19節~)。 立ち返るところは、昔も今も 「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです」ということです。 祈り:神様、私の偏狭な常識や思い込みをゆるしてください。あなたが愛され、恵みを注いで救われた教会の人たちを愛することができますように。サタンの惑わしや混乱させようとする霊から、教会をお守りください。アーメン

使徒14

「彼はパウロいの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、」使徒14:9 日曜日の礼拝メッセージでは、この後の部分、パウロたちが神だと誤解された箇所以降が語られました。 もちろん、彼らは神ではありませんでした。 ただ、彼を「じっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰がある」かを見ました。 そして、その信仰があることを確信できたので、主の癒やしを宣言しました。 癒されたのは神です。 私たちも、人を見てではなく神を見て歩むことが大切です。人を見ると落胆します。主を見上げる時に、主が変わらないお方であることに安心し、平安をいただきます。 祈り:神様、人の言葉や態度に左右されがちな私を助けてください。あなたを見上げ、あなただけに信頼することができますように。今週の歩みも導いてください。アーメン

使徒13

「総督はこの出来事を見て、主の教えに驚嘆し、信仰に入った。」使徒13:12 魔術師エリマは総督を信仰から遠ざけようとしました(8節)。 ところがパウロは聖霊に満たされたパウロによって罪を指摘されました。 それには力とわざが伴いました。 結果として総督は主の教えに驚嘆し、信仰に入った(12節)というのです。 信仰が試されていますか。伝道してもうまくいかないと思うことがありますか。 挫折や失敗でさえも、神様は用いることができるお方です。 逆転の結果、逆転の人生を備えてくださいます。 新しい週も、この主に期待しましょう。 祈り:神様、伝道や信仰生活がうまくいかないと思うときにも、すべてを益としてくださるあなたに信頼します。破産や失業、不合格や引きこもりなど、行き詰まりを通った人生がキリストにあって用いられ、主の栄光と希望が輝く人生となりますように。渦中にある人たちにキリストの励ましがありますように。 「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」アーメン

使徒12

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」使徒12:5 投獄され、解放は困難だと思われるぺテロのために、教会はあきらめませんでした。 「教会があきらめない」というのは、「教会に集う一人一人があきらめない」ということでした。 ぺテロのために「熱心な祈りを神にささげていた」とあります。 あきらめず集って、祈り会を持っていたのでした。 今の教会も、大きな問題が来たときに「あきらめない」教会となれます。 弱い者の集まりでも、互いに支えあい、共に主を見上げる集まりです。 生まれたての初代教会がこのように祈れたのは、聖霊の助けがあるからでした。 同じ聖霊が、私たちの教会にも注がれています。 祈り:神様、初代教会と同じように、熱心に祈ることを私たちに教えてください。聖霊の助けを頂いて共に立ち上がり祈ることができますように。アーメン

使徒11

「...弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」使徒11:26 「キリスト者(クリスチャン)」の名前の由来です。キリストに似た者、キリスト派と呼ばれるようになりました。 「推し活」でアーティストを推す人たちは、グッズをそろえ、サイトをチェックし、ライブに参加し、一体感を楽しみます。時間や労力を惜しみません。 一般のアーティストに対してでさえそうなら、イエス・キリストに対してはもっと「推す」ことができます。 なぜなら、キリストは私たちを命がけで愛し、永遠のいのちを与えてくださった素晴らしい方だからです。 祈り:神様、あなたの愛に感謝します。「キリスト者」と呼ばれて幸いです。さらにキリスト者としてキリストを推薦し、歩み続けることができますように。アーメン

使徒10

「そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。』」使徒10:34~35 えこひいき...子ども心に、学校で、ひいきされている(ように思える)友達と自分との扱いの差に敏感でした。 家庭の状況や地縁、血縁は、自分の努力ではどうしようもありませんでした。 そして、聖書の当時はユダヤ人だけが選ばれた民族だ、というのが常識でした。 ところが、ぺテロとコルネリウスに聖霊が働かれ、ぺテロは神が全世界のどの民族も同じように愛しておられることを確信しました。 今でも「神はえこひいきをする方ではなく」という表現を読むたび、子ども心の不安が癒される思いを経験します。 祈り:神様、あなたがえこひいきをする方ではないことを感謝し賛美します。あなたの愛が全世界のどんな人にも等しく注がれていることを、多くの方が知ることができますように。___さん、___さんが体験できますように。アーメン

使徒9

「そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」使徒9:39 サウロ(パウロ)の回心、アナニアの勇気、ダマスコからの決死の脱出、アイネアの癒しと、劇的な出来事が続きます。 しかし、それと同じくらい輝いているのは、あのサウロを引き受けたバルナバのあわれみです。 そして、表舞台には出ず、しかし心をこめてやもめのために衣類を作っていたドルカス(タビタ)の心です。 目立つ働きをする人に劣らず、キリストの性質を生きざまで表した人たちでした。 そして、周囲の人にキリストの愛と大きなインパクトを与えたのでした。 祈り:神様、教会や社会で、キリスト者として人知れず奉仕をしている人たちを覚えます。___さん、____さんに、主の祝福とねぎらいがありますよう祈ります。アーメン

使徒8

「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」使徒8:5 使徒の働きの筆者ルカは、ピリポについて淡々と記しています。 葛藤はあったかもしれませんが、それほど肩に力が入っていた印象も受けません。 確かなことは、彼が聖霊の働きに素直に従って行動した人物であったということです。 聖霊の導きに従ってサマリアで伝道すると、 ・群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。(6節) ・ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。(12節) その後、 ・主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。そこで、ピリポは立って出かけた。(26~27節) 荒れた場所だとわかりつつ出かけて行くと、福音が必要な人に出会いました。 ・御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。 そこでピリポが走って行くと、(29~30節) ・ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。(35節) 再び別の場所へ移動します。 ・それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイサリアに行った。(40節) 私たちはピリポほどあちこちへ移動するよう召されてはいないかもしれません。しかし、彼と同じように聖霊の語りかけを聞く者となりましょう。 祈り:神様、私の歩みが聖霊に導かれた日々とならせてください。行くところ、思いがけず出会う人、導かれている行動について、霊的に敏感であれますように。アーメン 祈り:

使徒7

「 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った。」使徒7:55~56 ステパノの殉教です。石打ちになる直前に、このように勇敢に語れるでしょうか。人の力ではなく神の力、聖霊の力であることを感じます。 青年だったサウロもその現場におり、証人たちの上着が置かれるのを間近にしていました(58節)。 そのサウロが後の大使徒パウロであるとは、周りの人も本人も思いもよらなかったでしょう。 しかしその時、聖霊は確かに働き、神のご計画が動きはじめていたのでした。 祈り:神様、あなたの霊の働きは、人間の知恵や力の到底及ばないものです。信じられないほどの神のご計画がなされていくことを、期待し祈る信仰を与えてください。アーメン

使徒6

「この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、」使徒6:5 初代教会の働きは使徒たちだけでなく、信仰と聖霊に満ちた人たちが実際面のリーダーとして仕えました。 一同はみな喜んでこのことを受け入れました。 その結果、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えました。それだけでなく、あの祭司たちが大勢、次々と信仰に入りました(7節)。 一大リバイバルが起こりました。 今の教会も、牧師や働き人だけでなく、リーダー、メンバー一人一人の祈りと愛の奉仕(もちろん祈りの奉仕も!)で歩んでいきます。 祈り:神様、教会の一人一人がかけがえのない存在であり、キリストが召してくださったことを感謝します。私たちを神と教会に仕える者として信仰と聖霊で満たしてください。アーメン

使徒5

「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」使徒5:11 アナニヤとサッピラの事件は、いつ読んでも心が痛みます。 ささげるというのは良いことのはずなのに、そこに偽りを言うという混ぜ物が入ったゆえに滅びてしまいます。 この夫婦の一連の出来事に、教会全体と聞いた人々には大きな恐れが生じました。 死そのものだけでなく、神の前と教会に誠実であること、自分を過大に装うプライドの罪深さなど、厳粛な思いになったことでしょう。 さらに、罪の結果死んだことにこれほど驚き恐れるなら、 罪がないのに死んでくださったイエス・キリストの愛には、その何倍も驚きあがめます。 教会は、キリストが死をもって買い取ってくださった者の集まりです。 祈り:神様、私の罪を背負い死んでくださったキリストの愛に感謝します。私の歩みが誠実であるように、自分を大きく見せようとか自分に栄光を帰そうとかいう誘惑からお守りください。アーメン

使徒4

「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」使徒4:31 初代教会の純粋な信仰と勇気ある証しの記録です。 キリストの復活を大胆に述べたぺテロとヨハネについて、 「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。(13~14節)」 と書かれています。 高学歴でなくても、普通の人でも、神様は証し人として用いてくださいます。 そして、神様が何をしてくださったかをそのまま分かち合う時、それは真実な証言になります。 どのようにキリストと出会ったか、信じるようになったか、そしてその後の歩みでどのように神がよくしてくださったか。 機会が与えられたら、気負わず、黙さず、そのままを分かち合えますように。 祈り:神様、普通の人をあなたが愛し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。日々恵みを受けていることを覚えます。主の良くしてくださったことを分かち合う時、言葉を与えてください。証し人としてキリストに栄光をお返しできますように。アーメン

使徒3

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」使徒3:16 美しの門にいた足の不自由な人は、ぺテロの 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)という言葉の後、歩けるようになりました。 しかしぺテロは、自分の力や敬虔さではなく、「イエスの名」に力があり、その名を信じる信仰のゆえに癒しが起こったのだ、と明言しました。 どんなに有名な伝道者も、賜物豊かで用いられている人でも、その人に力があるのではありません。イエスの御名に力があり、その名を信じる信仰によって癒しや奇跡が起こるのです。 イエス様こそが唯一の癒し主、救い主です。この方は「悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。」(19節)とある通り、罪をゆるす力があります。 祈り:神様、私たちにイエス・キリストに従う信仰を与えてくださり感謝します。この名に力があり、私たち信じる者に働いてくださることを信じます。様々な悪の力や惑わしから、今日もお守りください。見分ける力、見抜く力を聖霊によって与えてください。アーメン

使徒2

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」使徒2:46~47 最初のキリスト教会の誕生が記されています。何と麗しい、何と喜びに満ちた様子でしょう! それはイエスを主と信じる者に注がれた聖霊の働きによるものでした。 様々な言語で話したことも、あのぺテロが大胆にメッセージを語ったことも、みな聖霊のみたしによるものでした。 月曜日のJEC聖会のテーマは「天的教会」でした。 教会は天から与えられ、また天に還るもの。地上で、天の領域の祝福を受けているものである、というメッセージの部分が印象的でした。 この世にあって、この世のものではないということです。それは、天の領域である聖霊が直接働いてくださるからです。 祈り:神様、地上にある天の領域である教会に招いてくださり感謝します。キリストの霊により導かれていることに感謝します。聖霊の働きがもっとわかるように助けてください。アーメン

使徒1

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」使徒1:8 「使徒行伝(使徒の働きをかつては使徒行伝と呼んだ)は聖霊行伝です」 と言われた聖書学院の先生の言葉を今でも思い出します。 使徒の働きの中に、聖霊が働いている箇所がなんと多いことでしょう。 そして、聖霊が臨むとき私たちが力を受けるというのも、なんと心強いことでしょう。 イエス様がお命じになられたのも聖霊によってでした(2節)。 そして、信じる者には聖霊によるバプテスマが授けられ、力を受け、キリストの証人となることが語られました。 私たちの原動力は聖霊によります。そして、聖霊によって私たちは力ある働きを、主の栄光のためにさせていただけます。 祈り:神様、聖霊の働きについてわかるように目を開いてください。聖会のテーマ「天的教会」の歩みが、聖霊の働きによって進むことを覚えます。私たちの心を柔らかくし、聖霊の働きを喜びをもって期待し、信じることができますように。アーメン

ヨハネ21

「イエスは三度目もペテロに、『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」ヨハネ21:17 イエスを知らないと3度言ったぺテロに対して、イエス様は叱責ではなくやさしく尋ねてくださいました。ぺテロはこのやり取りを、生涯の最後までことあるごとに思いだしただろうと想像します。 イエス様のような完全な愛を、私たちが自ら生み出すことはできません。しかし、その愛を反映し、応えたいと願う者です。 初めにキリストが愛を与えてくださいました。私たちはそれに感動した時の、初めの愛にとどまるよう招かれています。その一人ひとり、またその教会を、主は喜んでくださいます。 祈り:神様、主の愛の大きさに圧倒されます。その愛の素晴らしさに応答したいという願いが、私たちの原動力でありますように。肉の思いでなく、主の導きに敏感にならせてください。アーメン

ヨハネ20

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネ20:31 ヨハネの福音書が書かれた目的がこれです。 面白い読み物としてとか、自分のために記録したとかではなく、 ・イエスが神の子キリストであることを、あなたがた(読者)が信じるため ・信じて、イエスの名によって(読者)が永遠のいのちを得るため です。 ヨハネの福音書は今日も私たち読者に問います。 公生涯、十字架、復活・・・の記事を通して、 「あなたはこの福音書が書かれた目的を受け取りますか」と。 受け取るためには、自分の知性に加えて、聖霊の働きが必要です。 都度「聖霊様、今から読む箇所をわからせてください」と祈りながら読んでみてください。 祈り:神様、聖書を読む時、聖霊の助けをいただいて読みます。 信仰を持とうかどうしようかと迷っている人に、聖霊の働きが豊かにありますように。聖書が霊感によって書かれた書物であるとわかりますように。アーメン

ヨハネ19

「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、『彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る』と言われているからである。」ヨハネ19:36~37 木曜集会で、テサロニケ人への手紙を読み始めました。 当時のローマ帝国は、皇帝を主、神として広大な領土を有していました。 反逆する者には容赦ない「見せしめの刑」を行いました。 最も残酷なのが「十字架刑」でした。 その刑を受けている最中にも預言が成就し、兵士が槍で突き刺した時でさえも神のご計画は成就していきました。 人間の残忍さも勝手さも、神の深遠なご計画には及びません。 罪深い人間と荒廃したこの世に、それでも神の愛と忍耐が注がれ続けていることに気づく者は幸いだと思います。今日、神の愛と恵みをいくつ数えることができるでしょうか。 祈り:神様、イエス・キリストが身代わりになって死んでくださるほどの愛を感謝します。今日立ち止まり、あなたの恵みを数えます。________のこと、______のこと、そして秋晴れの日差しも、あなたの恵みであることを覚えて感謝します。アーメン

ヨハネ18

「これは、『あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった』と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」ヨハネ18:9 捕らえるためにやって来た人に向かい、イエス様は 「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい(8節)」と言われました。 ご自身が全面的に裏切り者たちに向かい、弟子たちを守られたのでした。 その態度は十字架の上でも変わりませんでした。 十字架につけた者のためにさえ祈られました。 そして何より、十字架で受けられた罰は私たちを救うため、永遠の滅びから守るため、全面的にイエス様が引き受けてくださったものでした。 今日もイエス様は私たちの前に立ち、信じる者をあらゆる悪から守ってくださいます。 イエス様のこの姿は、昔も今も永遠に変わりません。 祈り:神様、罪の身代わりでイエス・キリストが十字架にかかってくださった恵みを、日々思います。この方は誰のせいにもせず、私たちの罪を背負ってくださいました。その血によってあがなわれたことに感謝します。アーメン

ヨハネ17

「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」ヨハネ17:2~3 私たちを愛されたイエス様は、その愛を表す祈りをされました。 「すべての人を支配する権威」を与えられたのは、使役するためや苦しめるためではありません。逆にご自身が永遠のいのちを与えるためでした。 愛するため、仕えるためにその権威を用いられたのでした。 また、「わたしは彼らのためにお願いします」(9節)と、死を前にしながらも私たちの守りを祈ってくださいました。キリストにあって私たちが一つであるようにと、切に願われました。 教会には性格も環境も異なる人が集まります。それは、神の深いご計画によるものです。イエス・キリストに多くの人が出会い、永遠のいのちを得るためです。そしてキリストにあって私たちが一つとなるためです。 祈り:神様、キリストの愛に感謝します。教会の様々な人が、あなたによって集められ、世に遣わされていきます。互いに裁いたり批判したりするのではなく、主にあって一つとなり、互いに祈り仕え合えますように。アーメン

ヨハネ16

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」」ヨハネ16:33 イエス様の話されることとその真剣さを、弟子たちはおぼろげながら理解しました。 そして、イエス様が「神から来られたことを信じます」と言いました。 その後、イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われました。 弟子たちはこの後まもなく、そのことを経験し始めます。 私たちもこの世に生きている限り、種類は違っても苦難を経験します。 しかし、すでに世に勝たれたイエス様の約束は、今日の私たちにも真実です。 イエス様にあって、私たちは平安を得ることができます。 そして、イエス様は「勇気を出しなさい」と呼びかけてくださいます。 祈り:神様、イエス様のことばと約束を感謝します。世に勝利されたイエス様が私たちの主です。 今日、学校や職場でいじめにあっている人、家族や友人関係で困難を覚える人たちに、このイエス様の励ましが現実のものと感じられますように。兄弟姉妹や私の心を守り、勇気を与えてください。アーメン

ヨハネ15

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」ヨハネ15:5 静まりのリトリートに参加しました。 キリストのうちにとどまっているのだろうか、と自問して過ごしました。 もちろん信仰は持っているつもりだし、クリスチャンらしく歩みたいと願っています。 しかし、心が情報や周囲の人間関係の波にさらわれ、さまよい歩いているのではないかと思うことがあります。 中村佐知さんという方が、静まり(沈黙)とソリチュードの重要性を書いておられます。 それは私たちの魂がこの世のやり方や価値観に沿って形造られることを防ぎます。また、自分の中にさまざまな衝動や依存、支配願望があるという気づきを与えます。さらに、「今、ここ」にとどまることを学ばせてくれます。 キリストを離れては何もすることができない存在だという自覚が、被造物である者の私たちの歩みの第一歩であることを覚えます。 祈り:神様、私の存在はあなたのものです。何をする時にも、言う時にも、キリストにとどまり、キリストがそうさせてくださいますように。主によって今日生かされている事実を受け取ります。アーメン

ヨハネ14

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」ヨハネ14:6 教会から北野田駅まで、自転車でいろいろな道を通るのが好きです。 昔ながらの細い道が多く、慣れない道を通るといまだに迷うことがあります。 それもまた楽しい発見です。 駅へ行く道には多くの選択肢があります。 しかし、父なる神のもとに行くには 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と、イエス・キリストを通るしかないと聖書は語ります。回り道や別の抜け道はないのです。 イエス・キリストを信じた者には、道のガイドである聖霊様が共に住んでくださいます。 日々の歩みで戸惑うとき、知恵が必要なとき、いつでも相談できるのが、助け主である聖霊です。 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(26節)」 祈り:神様、あなたのみもとに行けるキリストの道を与えてくださり感謝します。今週もそれぞれの場所に遣わされて行く兄弟姉妹を、聖霊様が導き励まし、困難や試練の中でも守ってください。主の恵みを覚えて感謝します。アーメン

ヨハネ13

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」ヨハネ13:1 あと数日という余命宣告を受けたら、何をしますか? 家族と過ごす、親友に連絡をする、手紙を書く、身辺整理をする、見たい景色を見る...人それぞれですが、そこには大切にしているものがあらわれます。 イエス様は「世にいるご自分の者たちを最後まで愛され」ました。 人々と共に時間を過ごし、神の国を語ってくださいました。 イエス様がどれほど弟子を初めとする私たちを愛してくださったかが、この1節からもわかります。 そして、イエス様が死なれるのも、私たちを愛して罪の身代わりと成るためでした。 裏切る者を知っておられたものの、13章を通して弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い、仕え会うようにと教え、ぺテロと静かにやり取りをしてくださるイエス様の姿を見ることができます。 このイエス様の愛のまなざしを、私たちは今日も受けています。 祈り:神様、目を閉じ、静かにイエス・キリストの愛を思い巡らします。その愛が、私自身にも向けられていることに感謝します。今日、キリストの十字架の恵みをもう一度覚えながら、聖餐式に参加します。アーメン

ヨハネ12

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」ヨハネ12:46 教会前庭の草刈りをしていて、うっかり腕時計を落としてしまいました。 気づいたのが夕方薄暗くなってからでした。刈った草のどこかに埋もれているとお思われるものの、暗がりではよくわかりません。 ところが、夫が懐中電灯で照らしてくれると、しばらくしてぴかっと時計のベルトが反射して光りました。 光の大切さと、光により見つけられることの実地学習をした思いでした。 イエス様は「わたしは光として世に来ました」と言われました。そして信じる者は闇の中にとどまることがありません。草むらに埋もれていた時計のように見いだされ、キリストの光を反映する者へと新しくされます。 それだけではなく、主のための思いを喜んでくださいます。マリアがささげた香油は弟子には愚かに思われましたが、イエス様はその心を知って喜んでくださいました。 私たちの存在も、その心も、主の光で照らされ、その光を反映できる者とされる恵みを静かに覚えます。 祈り:神様、闇の中にいた私を見つけてくださり感謝します。私の存在も心も、あなたの光で照らしてください。その光を反映する歩みに、あなたが導き入れてください。祈りながら一週間を歩んできた、愛する兄弟姉妹に主の平安と安息がありますように。アーメン

ヨハネ11

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 所用であるお宅に初めて伺いました。 ご高齢ながらも親切な方で、冷たいお茶を出してくださいました。 ひとしきり話した後、奥の部屋に案内されました。仏壇に、最近なくなった息子さんの写真がありました。 外国にも滞在し見識の広かったであろう息子さんが、きっと福音にも触れておられることを思いながら、ご家族の慰めを聖書の神様にお祈りしました。 イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。 イエス様を信じる者は、肉体が死んでも永遠のいのちを与えられています。何と希望に満ちているのでしょう。 教会の葬儀は寂しさや悲しみだけでなく、キリストの慰めと平安でおおわれています。 御国で再会できるという希望が、年ごとに何と幸いで恵みなのかを実感します。 一人でも多くの方が、キリストに出会い、永遠のいのちを持ち、福音を家族に分かち合って永遠の望みを持つことができますように。 祈り:神様、主にある永遠のいのちの望みを感謝します。今年愛する家族との別れを経験した___さん、____さんに主の平安がありますように。家族の皆が、イエス様にある永遠のいのちを受け取ることができますように。アーメン

ヨハネ10

「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」ヨハネ10:9 近所を散歩していると、文化財のように立派な門構えの家がありました。だれも押し破ることのできないような門と塀でした。 しかし、その家の裏側は畑で塀がありません。 もし私がそれをよいことに、いきなり裏から入ったら不審者です。家には入れてもらえないでしょう。門から入るのが来訪の方法だからです。 私たちも、イエス様という門を通って入るよう招かれています。それはイエス様を救い主として信じることによります。 そうすれば、羊が門の中で安心して憩うように、平安を持つことができます。 イエス様は「わたしは良い牧者です」(11、14節)とも言われました。羊のためにいのちを捨てるほどの牧者であるイエス様を信じる恵みを覚えます。 祈り:神様、あなたが救いの道を与えてくださり感謝します。門であり良い牧者であるイエス様を見上げます。ご近所の、なかなか会えない方々、門構えの奥で過ごす方々に福音を分かち合う機会を与えてください。配られるトラクト1枚1枚を用いてください。アーメン わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。27 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。10

ヨハネ9

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」ヨハネ9:3 個人的には、この章に何度となく励まされ慰められてきました。 障がいを持ったのは誰のせいでもなく「神のわざが現れるため」とイエス様が語ってくださったからです。 癒しのわざは素晴らしいですが、それだけではありません。 この人が、ありのままで証しする者となっていることも素晴らしいです。 ・こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。15節 ・彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」27節 ・私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。31節 ・彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。38節 主のご栄光が、この人を通して現れているのがわかります。 祈り:神様、あなたがどんな人でも用いてくださることを感謝します。障がいを持って生まれた、あるいは途中で障がいを持った人たちへの、イエス様の変わらぬ愛のまなざしを感謝します。___さん、___さんの生涯が、主にあって輝きご栄光のために用いられますように。アーメン

ヨハネ8

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」ヨハネ8:58 「わたしはある(I AM)」とは、神様がモーセに出エジプト記3章14節で語られたことばを思い出します。 そして、イエス様もまさしくそのことに言及しながらご自身を明らかにされました。 アブラハムが生まれたのは、過去のある時点でした。しかし、イエス様は世の初めからおられ、永遠におられる方です。 「I AM」と現在形が使われています。 どんなに世が暗くても、私たちに悩みがあっても、神は変わらずここにおられます。 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12節) 「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(31、32節) 祈り:神様、世の光であり、真理のことばであり、わたしたちに自由を与えてくださるイエス・キリストが、今日も変わらず生きておられることを信じます。 イエス様に出会い、真理を知り、希望を持つ方が起こされますように。悩みの中にある___さん、____さんに主にある希望と解決を与えてください。アーメン