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ヨハネ20

「イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」ヨハネ20:21 イエス様が言われたことばをどのように受け取っているか、問われます。 はじめの「平安があなたがたにあるように」は感謝して受け取れます。 しかし、後半の「わたしもあなたがたを遣わします」という宣言は見落としがちです。 受けるばかりでなく「与える」ことを主は望まれます。 そのひとつが「遣わされる」ことです。 大それたことではなく、今日すぐそばにいる隣人に、あるいは久しぶりに会った友人に、私たちは遣わされていると言えます。 その人に寄り添うことが、主の恵みの福音が広がるきっかけかもしれません。 祈り:神様、今週私が話しかける人、連絡をとる人を教えてください。あるいは祈りながら時を待つべきでしょうか。主の導きに従います。アーメン

ヨハネ19

「これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。」ヨハネ19:35 ヨハネは十字架のそばに立っていました。そして、イエスの母マリアの世話をするようにと託されました(26~27節)。 彼は見たものとして証ししました。 他にも、恐る恐る信仰を表明する人が出てきました。 ユダヤ人を恐れて信仰を隠していたアリマタヤのヨセフは、思いきってイエスのからだを自分の墓に入れることを願い出ました。 夜こっそりイエスのところに来たニコデモは、イエスのからだに塗る香料をたっぷり持ってきました。 失敗、敗北でしかないと思えた十字架のもとに、勝利の兆しをヨハネはほのめかして記述しています。 世界を見渡しても、信仰を抑圧され、敗北したかに見える地域があります。 しかし、その迫害の中に大きなリバイバルが起こっている国や地域があることを覚えます。 祈り:神様、キリストのもとに平安と勝利があります。どうか迫害の中にある地域と信仰者を励ましてください。また、日本の中でも家族や地域の因習の中で信仰を守る一人一人に、格別の守りと証しを与えてください。アーメン

ヨハネ18

「ピラトはイエスに言った。『真理とは何なのか。』 こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。『私はあの人に何の罪も認めない。』」ヨハネ18:38 ピラトはイエスに罪がないことを知っていました。真理についても関心を持ちました。 しかし、真理よりも自己保身を求めました。 それゆえに、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言われるように、無実のイエスを十字架刑にした者として名前が残ってしまいました。 自己保身のために歪めているものがないでしょうか。 また、無実の罪で虐待され拷問されている、クリスチャンや少数民族のためにも祈りたいと思わされます。 祈り:神様、自己保身に走り、他者のせいにしたり事実をゆがめたりする私の傾向をゆるしてください。また、今日も抑圧され生命の危機に脅かされている信仰者や少数民族に、福音による励ましと主の超自然的な守りがありますように。私にも祈ることを教えてください。アーメン

ヨハネ17

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」ヨハネ17:15 十字架にかかる前に、イエス様がこれほどまでに心を注ぎ、私たちのために熱心に祈ってくださったことは注目に値します。 「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです(21節)」 「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです(26節)」 そして、 「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです(15節)」と祈ってくださいました。 今日もイエス様が変わらないこと、共にいて下さることがわかります。 また、神の愛が信じる者のうちにいつも注がれているので、私たちにそれを流し出すよう望まれていることも確認できます。 祈り:神様、あなたがどれほど世を愛し、私を愛して下さったかを覚えて感謝します。苦難があっても守られるよう、今日も助けてください。私の霊と心を主にあって支えてください。 アーメン

ヨハネ16

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」ヨハネ16:8 人がイエス・キリストを信じるのは、聖霊の働きによります。 きっかけは誰かから聞いた福音でも、自分にそれが必要で、信じてみようという時には人の知恵を越えた聖霊が働いておられます。 洗礼準備クラスではまず「神」「罪」「救い」を学びます。 毎回、「罪について、義について、さばきについて」悟らせてくださるのは聖霊であることを感じます。 自分自身も、そのようにしてキリストのことがだんだんわかってきたのだなあと思います。 祈り:神様、聖霊の働きにもっと信頼し期待できるよう導いてください。今信じようかどうしようかと迷っている___さんに、聖霊が豊かに働いてください。アーメン

ヨハネ15

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ヨハネ15:4 今年(2025年)のペンテコステの時、このことばが心にとまりました。 聖霊が内住してくださることで、キリストは「あなたがたの中にとどまります」という約束を今日も有効なものにしてくださいました。 では私たちはキリストにとどまることを日々求めているでしょうか。 聖霊の満たしと、キリストから流れるいのちの水を与えてくださいと、どのくらい真剣に思っているだろうか...と自分に問いかけてみましょう。 祈り:神様、聖霊が信じる者と共にいつもいてくださることに感謝します。聖霊の満たしを求める者として歩みます。アーメン

ヨハネ14

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」ヨハネ14:27 イエス様が十字架にかかられ、去っていかれるなんて想像できたでしょうか。 弟子たちにとっては想定外、自分の人生が急転回するような出来事でした。 それでもイエス様は「平安を残します」と言われました。 世が与えるのとは異なる平安の与え方だと言われました。 私たちの常識とは違う方法で、しかももっと深い平安を与えてくださるのです。 今日も「心を騒がせてはなりません」「ひるんではなりません」と主は語りかけてくださいます。 祈り:神様、_____のことが気になります。主の平安が心に必要です。思い煩いから目を離し、心騒がせないようにお守りください。アーメン

ヨハネ13

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34 イエス様は単に教えを残されただけではありません。 ご自身が先頭に立ち、それを実践されました。 弟子たちに愛し合うことを教え、その通りに弟子の足を洗われました。 しかもご自身がまもなく十字架にかかるとわかっておられ、 裏切る弟子の足も洗ってくださったのです。 「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1節) 「最後まで」まさに十字架の上で息を引き取るまで、愛してくださいました、 祈り:神様、イエス・キリストの教えは一方的な道徳ではなく、キリスト自らが率先し実践してくださったことに感謝します。イエス様の愛を受けた者として、その姿にならいたいです。私の中に注がれた主の愛を、流し出すことができるよう導いてください。アーメン

ヨハネ12

「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」ヨハネ12:41 イエス様は地上に人として来られました。 しかし、それ以前にも神として存在しておられました。 預言者イザヤは、そのイエス様の栄光を見て預言しました。 それが12章の中に出てきています。 残念ながら、主を信じない人が多いことが預言され、その通りになりました。 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた」(42節)のですが、「彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」(43節)のでした。 今日、誰からの栄誉を求めていますか。周囲の人からすごいと言われるより、神様に「よくやった」と言われることを求めているでしょうか。 祈り:神様、人の目や評価が気になる者です。永遠の価値へと霊の目を開いてください。あなたからの栄誉を求める者とならせてください。アーメン

ヨハネ11

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 葬儀前の家族の状態を想像してください。喪失感と、泣いている暇がないあわただしさと、状況がまだ現実味を帯びない混乱した心の中です。 イエス様が2日も来られなかったので「どうしてもっと早く来なかったのですか」と言いたい気持ちもあったと思われます(21節)。 けれども、イエス様は「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」と言われました(4節)。 ラザロは癒されました。しかしそうでなくても、「死で終わるものではな」いのです。 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエス様のことばは、今の私たちにも当てはまります。 祈り:神様、あなたのよみがえりと永遠のいのちの約束を感謝します。主のもとに希望があります。喪失感の中にある___さん、___さんに、主の深い慰めと希望がありますように。アーメン

ヨハネ10

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」ヨハネ10:3 羊の群れを見ました。てんでばらばらで、あっち向きこっち向きしながら草を食べ、 時に座り込み、時に反対の方向へ行きかけます。 それでも、牧者がいざなう方向に少しずつ群れは移動します。 それは、牧者が羊をよく導き、囲いの中に入れたり牧草のところに連れて行ったりしてくれるからです。 イエス様と羊である私たちも同じです。 イエス様の声を聞き分ける者であるように、日々主の家に住まいましょう。 祈り:神様、私を導いてください。そして、私もあなたの声を聞き分けることができるよう、霊の耳を開いてください。アーメン

ヨハネ9

「イエスはこたえられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」ヨハネ9:3 いつもこの箇所に癒され励まされます。 私たちが「神様、どうして?」と思った時、それは「神のわざが現れるため」かもしれません。 弱さのうちに働いてくださる強い神をほめたたえます。 祈り:神様、私の生涯を通じてあなたの栄光を現してください。アーメン

ヨハネ8

「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」ヨハネ8:12 羊の群れを見ました。 群れといっても、その中では、草をあちこち食べる羊、あっちを向く羊、座りこむ羊などてんでばらばらです。色や模様も違います。 けれども、羊飼いは強制せず、上手に群れを導いていました。 導きや主への従い方は人それぞれです。 しかし、イエス様が羊飼いであるとは何と安心かと思います。 世の光である主を見上げる者は光の中を歩ませて頂けます。 祈り:神様、今日もあなたを見上げて歩ませてください。私は私らしく主に従い仕えます。アーメン

ヨハネ7

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」ヨハネ7:47 「一人の罪深い女」と書かれた女性が、イエス様に香油をささげました。 多く赦された人でした。そして多く愛することができたとイエス様はおっしゃいました。 私たちは、キリストの救いを信じた時だけでなく、その後も自分の罪や至らなさ、足りなさに気づきます。 それは悲しく思えますが、より主を愛する者とされるためでもあります。 主と交わり、悔い改めと恵みの中に浸りましょう。 祈り:神様、多く赦してくださり感謝します。あなたを多く愛する者としてください。アーメン

ヨハネ6

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」ヨハネ6:48 日本では、信仰を持つのに時間がかかったり、しばらくすると教会生活から離れてしまう人が多いと聞きます。 しかし、日本だけの話ではありません。 モンゴルでは、新しく福音を聞いて受け入れるのは簡単だけれど、また別の新しい教えが入るとそちらに心を向ける人が多いのだと聞きました。 欧米でも信仰から離れる人がいるそうです。 私たちの土台が、岩の上に家を建てた人のようになるにはどうしたら良いでしょうか。 神のことばに根ざすことです。人や状況は変わるし、当てになりません。 変わらない神ご自身に土台を置くことです。 祈り:神様、私たち一人一人があなたのことばに基礎を置くことができますように。洪水や嵐にも流されない土台を置けるよう導いてください。アーメン

ヨハネ5

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ヨハネ5:24 イエス様の生涯は、徹底してご自身を遣わされた方ー父なる神様ーのみこころを行うこと、父に栄光を帰すことに集中したものでした。 神ご自身が人として来られ、神のみむねを体現してくださったという信じがたい恵みなのです。 イエス様がそうされたなら、私たちはもっと自分自身でなく神に栄光をお返しするよう歩みたいと思わされます。 小さな手柄(手柄とも言えないような)を自分のものにせず、神のものにすることが習慣となりますように。 祈り:神様、あなたのお名前だけがあがめられますように。あなたの栄光のために、大胆になれますように。あなたが願われることに集中できますように。アーメン

ヨハネ4

「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ4:50 まだ見ないものを、どうして信じることができるでしょう。 見えない神を、どうして信じることができるでしょう。 それが今日の多くの人の問いです。 しかし一方で、フェイクニュースや噂には惑わされてしまいます。 王室の役人は、カペナウムからガリラヤまでやって来て、息子の癒しを願いました。 カペナウムまで来てほしいと言う役人に、イエス様は「行きなさい」とことばを与えました。 信じるまでに、彼の内側にどのような葛藤と心の変化があったでしょうか。 それでも、その人はイエスが語ったことばを「信じて」帰って行きました。 それが信仰です。 私たちも、聖書のことばにかけてみよう、信頼してみようと思いませんか。 祈り:神様、信仰は理屈でなく「いっぺんそうしてみよう」という選択だとも言えます。私たちの小さい理性ではわからないことも、あなたはご存知です。私の親戚や友人が、聖書のことばに信頼してみよう、と選択することができますように。アーメン

ヨハネ3

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16 再び、「聖書の中の聖書」と言われる節にきました。 神の愛、そしてイエス・キリストを救い主だと信じる者が受ける恵みが表れています。 ゆっくりと声に出して読み、味わいたいと思います。 祈り:神様、あなたの愛と恵みを感謝します。福音がもっとよくわかるよう、聖霊様働いて助けてください。アーメン

ヨハネ2

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネ2:11 世話役はいきさつを知らず、花婿をほめました。 しかし、給仕たちはイエス様が水をぶどう酒に変えたと知っていました。 宴会の場で一時的に花婿が持ち上げられたとしても、 真に栄光をとられたのはイエスでした。 主に用いられる人が一時的に目立っていたとしても、 それはその人が偉いからではありません。 主が栄光をとられるためです。 舞台裏で仕えていても、そこが一番主の栄光を間近に見ることができる場所かもしれないのです。 祈り:神様、どの場所であっても主に仕える喜びを与えてください。キリストの栄光を見せてください。アーメン

ヨハネ1

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」ヨハネ1:16 その理由は、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したから(17節)」だと、ヨハネの福音書は語ります。 いくら分けてもなくならない、満ち満ちた豊かさと恵みの大きさは想像もつきません。 その恵みの中に入れられている恵みを感謝しつつ。 祈り:神様、あなたの豊かさと恵みが限りなく、主を見上げる者に注がれることに感謝します。この素晴らしい恵みに一人でも多くの方が気づきますように。アーメン

ルカ24

「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」ルカ24:45 そうして、次のことを言われました。 「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(46~48節) イエス・キリストこそ、聖書を悟らせてくださる方です。 聖書が難しい、と嘆かず、霊的な目と心を開いていただけるよう願いましょう。 光が差すように、少しずつ主の霊が働いてくださいます。 祈り:神様、聖書を理解したいのに難しいと感じることがあります。知性だけでなく、霊性でわかるように助けてください。私の霊の目を開いてください。アーメン

ルカ23

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」ルカ23:34 ローマ帝国の遺跡は世界遺産となり、素晴らしい価値があると考えられています。 現代も現役で使われている橋や門すらあるそうです。 しかし、その帝国の支配下で十字架刑が執行されていたのでした。 イエス様が十字架の上でこのように祈られたことを、ともすれば軽く読み流してしまいます。 しかし、私自身が「衣を分けるために、くじを引いた」者の一人であったと考えたことがあるでしょうか。 イエスに無関心、十字架に無関心であったローマの兵隊や大部分の群衆のように、私たちも福音に無関心であった者でした。 それでもイエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈り招き続けてくださったのです。 祈り:神様、十字架の出来事が今も同じように救いの価値があることを覚えます。イエス様の祈ってくださった愛と時代を超越した恵みに感謝します。アーメン

ルカ22

「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」ルカ22:20 イエス様が十字架で血を流されたことにより、新しい契約がもたらされました。 それは、古い律法によるのではなく、いのちを与え、みずみずしく、解放と自由をもたらすものでした。 新しい契約により、聖霊が自由に働かれ、一人一人に与えられました。 ペンテコステの日、聖霊にある自由を味わい感謝しましょう。 祈り:神様、すべての鎖や罪の束縛から自由にされたことを感謝します。聖霊がくだってくださったことを感謝します。ペンテコステの感動を新たにすることができますように。アーメン

ルカ21

「あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」ルカ21:4 再び2レプタ銅貨をささげたやもめの記事が出てきます。 この女性は、この後どうなったでしょうか。 聖書は沈黙していますが、きっとその生活は守られたことでしょう。 なぜなら、イエス様が目を留めてくださったからです。 自分の手にあるものだけを眺めているか、 天の宝を見上げるか、 今日の私の目線はどちらでしょうか。 祈り:神様、私の目線が天を見上げるものとなりますように。アーメン

ルカ20

「律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。」ルカ20:19 律法学者と祭司長たちの特徴は、いつも「人」を恐れたことでした。 人の評価、人の評判、人の歓心をかうことにばかり意識が向いています。 一方、イエス様は「神」を恐れることで一貫しておられます。 ぶれることなく、焦点が定まっていたことがわかります。 私たちの関心はどこにあるでしょうか。 神に喜んでいただくことでしょうか、それとも人情や人の目に偏っているでしょうか。 祈り:神様、私の視点をあなたに定めることができますように。主が喜ばれるかどうかが、私の判断、決断の基準になりますように。今岐路に立たされている___さんが、祈りつつ主のみこころを受け取れるよう、格別の励ましを注いでください。アーメン

ルカ19

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10 ザアカイについての記事はわずか10節足らずです。 にもかかわらず、しばしばメッセージで語られ、子どもでもおとなでも印象に残るキリストの出会いについての話です。 情景が浮かびます。 背の低いザアカイ、金持ちだったけれども嫌われており、苦肉の策で木に登った彼の姿は、私たちに共感を与えます。 考えてみれば、誰しもザアカイのような側面があります。 劣等感、不全感、それを埋めようと求めていること、キリストに知られているという喜び、悔い改め、すべてが新しくされたこと、心の一新が行動にも表れること。 「キリストは、失われた私を捜して救うために来られた」という恵みを受け取りましょう。 祈り:神様、私のためにイエス・キリストが地上に来られ、十字架で罪をあがなってくださったことに感謝します。キリストの霊である聖霊によって、今日も導かれていkたいです。アーメン

ルカ18

「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」ルカ18:14 パリサイ人よりも、胸をたたいて祈っていた取税人が義と認められた、というたとえ話です。 パリサイ人の行いは一見立派でした。ところが、心の中は高ぶっており、自分の義を行いで証明しようとしました。 一方取税人は、自分の心の醜さと罪深さを自覚し、悔い改めと赦しを乞う祈りをしました。 つい他人にいらいらしたり、自分のやり方が正しいと思いがちな時には、肉に任せて自分を高くしている時かもしれません。 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という聖書の原則を、心にとめておきたいと思います。 祈り:神様、他人をさばかず、へりくだる心を与えてください。あなたの恵みで赦された罪人であることを思い返し、感謝とあわれみの心をいただきます。アーメン

ルカ17

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」ルカ17:10 これだけやったのに報われないなあ、と感じることがありますか。 仕事では、要領のよい同僚がどんどん出世し、後輩の給料が上がっていくのに、自分は取り残されているように思えることがあります。 一生懸命子育てをしても、子どもが反抗してしまうこともあります。 家事も、やってもやっても終わりがありません。 もしかすると、教会の奉仕や信仰生活までも、同じような気持ちになることがあるかもしれません。 しかし、神様に対してするのは喜びが動機であり、恵みへの応答が原動力です。 「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えるでしょうか。 もし言えないなら、肉でやり過ぎているか、人の評価を求めているかかもしれません。 心を探り、主が何を望まれるかを共に吟味しましょう。 祈り:神様、一生懸命伝道した___さんの反応がよくなかったり、奉仕が思うように喜ばれなかったりすると落胆してしまいます。あなたの前に、心から仕えるしもべとなりたいです。私の心を探ってください。アーメン

ルカ16

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」ルカ16:15 「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた」 (14 節)と書かれています。 当時の教師たちがお金の多少で動いていたのは、神のみこころからずれていることですね。 今も多くの「宗教」でお金目当てと思われるものがあります。 もちろん、お金は日常生活に欠かせないものです。 しかしそれ以上に「主は心を見られる」ということを、私たちイエス・キリストを信じる者は覚えていたいと思います。 たとえつましい生活でも、心を寄せ合い暮らす人々は、周囲にとっての光であり励ましです。 くよくよしないで、与えられているものを感謝し満たしを信じて歩みましょう。 祈り:神様、生活ぶりを比較して落ち込むことがありませんように。自ら働き、主が備えてくださるものを感謝して受け取り、祈りつつ知恵をもって用いていくことの喜びと恵みを一人一人が体験できますように。アーメン

ルカ15

「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」ルカ15:32 放蕩息子の弟は、悔い改める罪人のたとえです。 兄息子はいらいらし、不満を父にぶつけました。 しかし、弟息子の悔い改めは、迷っていた1匹の羊のように、あるいはなくした1枚の硬貨のように、天の国では喜びでした。 兄息子のような態度を取りがちな私たちです。 しかし、自分が弟息子だったことと、今や御国の相続人とされていることを思うと、不満の前に感謝を表す者であるようにと気づかされます。 これだけのたとえを用いて、神様は忍耐強く教えてくださっているのです。 祈り:神様、私は感謝の足りない者です。ひがみや妬みの心を造り変えてください。自分の置かれている恵みを感謝し、新しく永遠のいのちを持つ人に寄り添い、ともに喜ぶ者になれますように。アーメン