投稿

5月, 2025の投稿を表示しています

ルカ7

「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」ルカ7:7 もうずいぶん前のことですが、メイドさんのいるお宅に伺ったことがあります。 柔らかい物腰で話される主人でしたが、メイドさんには端的にすべきことを命じておられました。 メイドさんを見下すのではなく、権威を持って言葉を発しておられたのでした。 百人隊長も権威についてよく理解していました。そして、イエス様のことばにはたしかな権威と効力があることを信じていました。 それがイエス様を驚かせるほどの彼の信仰でした。 私たちも、イエス様のことばには権威と効力があることを、百人隊長のように信じて歩みましょう。 祈り:天の神様、みことばには力があること、そのことばの基であるキリストこそ私たちの主であることを認めます。今日も信仰によって歩ませてください。アーメン

ルカ6

「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」ルカ6:37 イエス様は、さばかないことと赦すこととを勧められました。 そして「父があわれみ深いように、あわれみ深くなりなさい」とも。 それは他者のためではなく、自分のためであると教えてくださったのです。 さらに、気前よく与えることも祝福になると言われました。 昨日はシンガポールチームが訪問してくださいました。 彼らの時間や資源のささげ方にはっとさせられます。 彼らが豊かで満ち足りているように思えるのは、神様がすべてを知って報いておられるからなのだと学ばされます。ささげ方を学ぶ良い機会でもありました。 祈り:神様、あなたが私に委ねてくださった資源を賢く管理させてください。つまらない心でさばいたりねたんだりすることから、心を自由にし、天国人としての歩みに導いてください。アーメン

ルカ5

「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」ルカ5:11 「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」ルカ5:28 シモン(ぺテロ)、ヤコブ、ヨハネ、そしてレビ(マタイ)が弟子となった経緯が記されています。 「すべてを捨てて」と繰り返されています。 イエスの弟子となるために、彼らは収入を得る手立てを捨てました。 また、自分の住み慣れた快適な場所(コンフォートゾーン)から一歩踏み出しました。 アーティストやスポーツ選手のファンになったことがありますか? 熱狂的なファンがどこまでもついて行く姿を思い浮かべてください。 イエス様に従うのは、それ以上の理由と意味があります。 永遠のいのちを与え、福音をもたらす方だからです。 古ぼけた過去の話ではなく、今日の私たちに生きて関わってくださる方です。 祈り:神様、弟子たちがすべてを捨てて従うほどの福音の価値を、私もかみしめ共有したいです。自分だけの快適な生活を求めるのではなく、主に従う日々を味わわせてください。アーメン

ルカ4

「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」ルカ4:1〜2 ルカは福音書でも使徒の働きでも「聖霊に満ちて」という表現を多用しています(使徒の働きでは57回も出てくるそうです:NIV Study Bible)。 聖霊に満たされても荒野に導かれてしまうのか、と驚くかもしれません。いつも幸せで、試練などないのでは、と。 それはクリスチャンになれば試練がなくなるのでは、というのと同じ問いだと思います。 信仰を持っても困難がなくなるのではありません。ただ、その勝利が約束されます。 神様は荒野で私たちを練りきよめ、私たちの信仰を育ててくださるのです。 その時は辛く思えても、後に神と人とのために益とされ、勝利へと導かれます。 祈り:天の神様、私たちは困難にあいたくないと考えます。しかしあなたが私たちを成長させ、全てを益としてくださるという約束に信頼させてください。 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」 アーメン

ルカ3

「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、…」ルカ3:23 ルカは、イエスが処女降誕されたことを一貫して伝えようとしています。 「ヨセフの子と考えられていた」というのも、血肉としては異なるのだと示唆しています。 また系図についても、ダビデからはマリア側を示しているという見方ができます。 当時は母方について系図が述べられることは滅多にありませんでした。しかしルカは、これを通しても処女降誕を伝えようとしたのでしょう。 医者ルカがここまで調べ、主張しているなら、神のわざをそのまま信じることができると思いませんか。 祈り;神様、あなたの偉大で及びもつかないわざを感謝します。私の不信仰を赦してください。あなたに頼ります。なかなか信じられないという(   )さんの目を開いてください。アーメン

ルカ2

「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」ルカ2:51 ルカはイエス様の少年時代を記録しています。 祭りの期間に迷子になった、と思われましたが、エルサレムで教師たちとディスカッションしておられました。 心配するという親としての立場と、救い主をあがめる立場にマリアは立っていました。 そして 「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」 のでした。 マリアに託されたユニークな使命を、彼女は生ききりました。 同じように、私たちにも託されたユニークな使命があります。それを生ききることを、主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたがデザインしてくださった私の人生を生きていきます。ひとりでも、目立たなくても、日々主とともに歩めますように。アーメン

ルカ1

「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」ルカ1:6 ザカリヤもエリサベツも、信仰深く、神の前に誠実に生きていました。 しかし、願っていた子どもは与えられませんでした。そしてすでに年をとっていました(7節)。 「正しい人がなぜ苦しみにあうのか?」は信仰者がぶつかる問いです。 そして聖書には、ザカリヤとエリサベツの他、ヨブや創世記のヨセフなど、正しい人が苦しみにあう例が出てきます。 「なぜか?」に即答できない場合もあります。 それでも確かなのは、神のご計画のうちにある、ということです。 ザカリヤとエリサベツの試練は、イエス・キリストの来臨の道備えをする人物を生み出すことになりました。また、神の栄光が現れる機会を人々の前に示しました。 私たちの苦難も、神のよいご計画のうちにあることを信じましょう。 祈り:神様、あなたのよいご計画を信じたいです。今苦難にあっている人たちを覚えて祈ります。主にある解決に望みを置く人に、豊かに主のご栄光を表してください。アーメン

マルコ16

「青年は言った。『驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。』」マルコ16:6 人に会いに行って「ここにはおられません」と言われるとがっかりします。 ところが、十字架で死なれたイエス様が「ここにはおられません」とは、嬉しい驚きであり、言葉では言い表せない喜びです。 ありえないことが起こった。それが私と関係あるーー その感動を味わったでしょうか。 味わっているなら、イエス様から離れようとは思いません。 人との関係でなく、主との関係に目を向けてみましょう。 祈り:神様、イエス・キリストの復活の恵みを日々思い巡らすことができますように。キリストにより根ざす思いを、ひとりひとりの心に与えてください。アーメン

マルコ15

「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。」マルコ15:43 有力者の中にも、イエスを神の子と信じて信仰に入った人がいました。 有力者ならピラトと交渉するのもたやすかったというわけではありません。 もしパリサイ人や律法学者の反発をかえば、追放や迫害は避けられなかったでしょう。 「勇気を出して」と一歩踏み出したヨセフの信仰は、私たちにも主に従う者の姿勢を教えてくれます。 職場で、学校で、地域で、少数派だからと萎縮せず、主への従順と勇気が周囲の祝福になることを信じます。 祈り:神様、福音と神の国の素晴らしさをもっとわからせてください、アリマタヤのヨセフのように、置かれた場所で信仰に根差した一歩を踏み出すことができますように。アーメン

マルコ14

「そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。』」マルコ14:36 福音書を読むと、受難週とイースターを何度も経験するような思いになります。 マルコでも、イエス様が十字架を前にゲッセマネで祈られる箇所になりました。 35節には「それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」とあります。 神のひとり子である方が「できればやめてください」と願い、しかも聞き届けられなかったというのは示唆に富んでいます。 なぜなら、そのイエスの願いを越えた神のみこころが実現することで、もっともっと素晴らしい救いの道が完成したからです。 私たちも祈りがきかれないことがあります。それを「神などいない」といじけるか、神のもっともっと素晴らしい計画を見ることになるのかは、私たちの選択です。 祈り:神様、祈りがきかれない時にも信頼する心を与えてください。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られたイエス様にならいたいです。今日、試練の中にある人に、忍耐と新しい力を与えてください。アーメン

マルコ13

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」マルコ13:33 もしも今日、イエス様が再び来られるとしたらどうしますか。 「あの人にも話さなきゃ」とあわてますか。 「ベストを尽くして福音を分かち合った」と安心しますか。 いつがその時かは、神ご自身だけが知っておられます。 しかし、その時が近なら、どう日々を過ごすか…それこそが私たちの生き方として示されているのではないかと思います。 祈り:神様、あなたが変わらないお方であることに感謝します。不安の中で生きている人々に、あなたの福音からくる平安を伝えることができますように。 「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(31節)」 アーメン

マルコ12

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。『まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。』」マルコ12:43 イエス様はたくさんささげる金持ちの献金より、貧しいやもめがささげた銅貨2枚の重みをよく知っておられました。そしてやもめのささげ方を評価されました。 それは、献金が額でなく心を表すものだからです。 神様を愛し、与えられているものに感謝してささげる献金は、その人の信仰の表れです。 この点がカルト宗教との大きな違いです。 ある人が、自分に必要があるからこそ多くささげてみた、とあかししてくれました。 神の国を第一にするとき、すべてが備えられるということを信じていて、本当にその通りになりました。 私たちは今日、どのようなささげ方をしているでしょうか。 祈り:神様、あなたの満たしを期待します。経済的なことでやみくもに焦ることなく、静まって主の満たしを祈り知恵深く行動できるよう、また惜しまず大胆にささげられるよう、私を整えてください。アーメン

マルコ11

「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。 『ホサナ。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。』」マルコ11:9 エルサレムの町にイエス様が入られた時、人々は「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と歓迎しました。 しかし1週間もたたないうちに、十字架につけてしまいます。 人の心はなんと変わりやすいことでしょう。 一方、聖書は神が私たちをまず愛してくださったと語ります。 そしてその愛は変わることがありません。 私たちが何をしてきたとしても、神は見捨てることをなさいません。 悔い改める人を神は赦してくださいます。 この恵みと赦しの大きさをかみしめましょう。 祈り:神様、イエス・キリストと出会ってからも、時に自分勝手な思いに陥り、失敗をしてしまう者です。赦してください。悔い改める心、砕かれた柔らかい心を与えてください。アーメン

マルコ10

「そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」マルコ10:52 イエス様は、目の見えない人に「わたしに何をしてほしいのですか」と言われました。すると、その人は「先生、目が見えるようにしてください。」と答えたのでした(51節)。 そのはっきりした答えは、彼の信仰から来るものだと言えます。 ・彼は、願うべき根源の必要を知っていました。お金がほしいのでも、みじめな思いでもなく、目の癒やしだったのです。 ・彼は、イエス様には癒す力があると信じて、ストレートに願いました。 少し前の部分を読むと、彼が繰り返し「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けたことがわかります。 すでにイエス様のところに来る時、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」やって来ました(50節)。 ・イエス様の元に行くことを第一に求めました。 彼の姿勢は、私たちの信仰のあり方によいお手本を示しています。 祈り:神様、この記事に出てくる人のように、主を求め主にすがる者とさせてください。母の日に、私たちに肉の母、霊の母を与えてくださったことに感謝します。アーメン

マルコ9

「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。』」マルコ9:35 あるお母さんたちが、校長先生をほめていました。「あの校長先生は、毎朝校門で子どもたちを迎えてくれる。その後、ほうきで掃除をしている。いい先生だわ」と。 仕える姿が好感だけでなく、信頼を生んでいるのだと思いました。 校長先生どころか、神であるイエス・キリストが同じようにされた、と聞いたら驚くことでしょう。 しかし、イエス様は弟子の足を洗ったり、食物に気を配ったり、子どもたちを抱いたりされました。 「サーバント・リーダーシップ」の見本を見せてくださいました。 祈り:神様、仕える者の姿をイエス様が示してくださり感謝します。私も、小さな仕事でも心をこめてできるよう、謙遜にさせてください。アーメン

マルコ8

「すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。」マルコ8:11 イエス様は、パリサイ人との対立を避けることはなさいませんでした。 むしろ、彼らの矛盾や先入観、人の規則でがんじがらめになっている状態を鋭く指摘されました。 彼らがむやみに天からのしるしを求めたのも、神の栄光ではなく、イエスを陥れようとしたからでした。 今日も「神を見たら信じる」とか「この願いが奇跡的にかなったら信じる」という人がいます。 しかし、その動機はどこにあるでしょうか。 そのように問いかける人が、見えなくても確かなものがあることに気づけますように。 祈り: 神様、理詰めであなたをわかろうとするのではなく、信仰で見ることができますように。イエス・キリストの救いを疑う人に、聖霊と主の愛にふれられる経験が与えられますように。アーメン

マルコ7

「それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならーー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」マルコ7:11~12 「コルバンって、何だろう」と想像したものでした。レビ記の「ささげ物」のヘブル語発音を現したものですが、当時は「パン」の一種か何かのように思えたのですね。 これは、パリサイ人や律法学者たちが父や母へのケアをないがしろにしており、「コルバンになりました」と言い訳をしていたことを戒めたものです。 イエス・キリストを救い主だと信じることは、決して親不孝ではありません。 むしろ、親や家族をより愛し、キリストの愛を実践することができるようになる(はず)です。 言い訳しがちな私たちですが、もうすぐ母の日。 母や父、家族に、今年はどのように愛を表すことができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの素晴らしい愛を受け取り、流し出すことができますように。私たちの肉の父母、そして霊の父母に感謝します。アーメン

マルコ6

「するとイエスは彼らに言われた。『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」マルコ6:21 6章も目まぐるしいほどに、イエス様の公生涯の歩みが記述されています。 奇跡の数々、親類のバプテスマのヨハネの殉教の経緯、十二弟子の派遣、人々とのやりとり...。 その多忙な中でも、イエス様は静まりの時、ソリチュードを持っておられました。 そして弟子たちにも、しばらく休むようにと配慮してくださいました。 連休中、少しは休めたでしょうか。通常と変わらず出勤だった人もいるでしょう。つい動きすぎて、かえって疲れている人もいるかもしれません。 いつ、静まる時を持っていますか。イエス様は招いておられます。 たとえ多忙の中にあってもその時が持てることを、ご自身で示してくださいました。 祈り:神様、あなたの与えてくださる静まりの時を感謝します。日頃雑事に追われては聞くことのできない主の声、見ることのできない大きな絵を、主と共に過ごし見聞きすることができますように。アーメン

マルコ5

「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。」マルコ5:29 「すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。」マルコ5:42 マルコの福音書にはしばしば「すぐに」ということば出てきます。 5章でも、イエス様の癒やしが直ちに起こったことを示しています。 ただし、それまでの経緯は長いものでした。 女性は12年長血に苦しんでいました。 少女は一度死んでしまいました。 主の時が来たとき「すぐに」癒やしが起こったのでした。 それは彼らの願いよりも随分後のことだったでしょう。 主のご計画は、私たちの思いと違うタイミングで起こることが多くあります。 それまで、最善をなさる主に信頼しつつ待つ者でありますように。 祈り:神様、あなたの時を期待し信頼することができるよう、必要な忍耐と力を与えてください。今、祈りがなかなか聞かれないと感じている人に励ましを与えてください。私も________のことに、主の時を待ち望みます。アーメン

マルコ4

「イエスはまた彼らに言われた。『明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。』」マルコ4:21 福音は、ちょうど明かりのようです。 その福音の光を頂いた私たちがすることは、明かりを燭台の上に置くことです。 暗闇を光が照らすためです。 升の下や寝台の下に隠しておくためではありません。 福音の光を、家具の下や部屋の隅に隠していないでしょうか。 光はよく照らすところにおいても、むやみに減ることがありません。 福音も分かち合えば分かちあうほど、さらに豊かに輝きます。 昨日まかれたトラクトが、必要な方の手元で輝きますように。 祈り:神様、あなたの福音の光をまく働きをゆだねてくださり、感謝します。種を成長させてくださるのはあなたですから、結果に左右されず種をまき続けることができるよう、導いてください。アーメン

マルコ3

「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。」マルコ3: 10 連休中で、空港や観光地は大勢の人でいっぱいです。 その様子は、当時の人々がイエス様のところに押し寄せた光景と重なります。 「イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた」(9節)とあるほどです。 直接的には病気の癒やしが動機でしたが、そこに福音があることも人々は見聞きしました。 連休中の礼拝はどうでしょうか。外出していても、オンラインはもちろん、現地の教会を訪ねてクリスチャンの励ましを持つこともできます。 やがてリバイバルが起こりイエス・キリストを求めて教会に人が押し寄せる、マルコ3章の光景を見る日を期待します。 祈り:神様、キリストの福音がどれほど価値があり、永遠の喜びと楽しみをもたらすものか、まず私自身がよくわかりますように。リバイバルに備えて一人一人の霊性を整えてください。アーメン

マルコ2

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」マルコ2:22 私自身はアルコールを飲みませんが、年数の経つワインの方が価値があると聞いたことがあります。 それで、一瞬混乱して、古いぶどう酒の入る古い皮袋の方が価値があるのか、と思ってしまったことがありました。 そうではありません。 新しいぶどう酒は発酵して膨らむので、伸縮性のある新しい皮袋に入れなければならないということを、イエス様はここで言われました。 新しいぶどう酒とは、新約時代であり、新しいイエス・キリストの契約に基づく福音の時代です。 それを古い律法の袋に入れるではない、ということです。 私たちの心も、先入観を持った古い皮袋ではなく、新しい皮袋として、聖霊のダイナミックな働きを受け入れ、それに従う柔らかさを持てますように。 祈り:神様、私が新しい福音の契約に生きていることに感謝します。古い先入観や、不要な価値観から自由になれますように。主にある自由を味わいます。アーメン

マルコ1

「こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。」マルコ1:28 マルコの福音書は、主に外国人クリスチャンに宛てて書かれました。 イエス様の行為、何をなさったかにより焦点が当てられています。 そして「すぐに」という表現があちこちに出てきます。 1章を読むだけでも、マタイの福音書で何章にもわたって書かれていたことがコンパクトに、総集編のようにまとめられています。 学生時代、聖書をはじめて読む人のために昼休み聖書研究会が持たれていました。 そこでは、このマルコが用いられていました。 読書が苦手、聖書は難しそうという人にも、このマルコの福音書は読みやすいと言われています。 イエス様の姿がいきいきと表現されているので、楽しみに読みましょう! 祈り:神様、初めて聖書を読む時も繰り返し読む時も、知性だけでなく聖霊に頼りながら読めるよう、助けてください。マルコの福音書を通して、さらにイエス・キリストのことがよくわかりますように。アーメン

マタイ28

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:19~20 マタイの福音書の中で、もっとも印象に残るみことばの一つがこの「大宣教命令」です。 JEC聖会のメッセージでは、種にはいのちがあり、それが成長するのは神の領域であること、しかし種をまくのは私たちにゆだねられたことだと学びました。 救いに導き、信仰を成長させてくださるのは神様です。 すぐに実が見えなくても、種をまき続ける農夫のようであれば、神が思いがけない形で報いてくださいます。 祈り:神様、あなたのおことばに従って種をまきたいです。私にあった伝道やあかしの仕方に導いてください。あなたが成長させてくださる方であることに期待します。アーメン