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ヨハネ11

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 葬儀前の家族の状態を想像してください。喪失感と、泣いている暇がないあわただしさと、状況がまだ現実味を帯びない混乱した心の中です。 イエス様が2日も来られなかったので「どうしてもっと早く来なかったのですか」と言いたい気持ちもあったと思われます(21節)。 けれども、イエス様は「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」と言われました(4節)。 ラザロは癒されました。しかしそうでなくても、「死で終わるものではな」いのです。 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエス様のことばは、今の私たちにも当てはまります。 祈り:神様、あなたのよみがえりと永遠のいのちの約束を感謝します。主のもとに希望があります。喪失感の中にある___さん、___さんに、主の深い慰めと希望がありますように。アーメン

ヨハネ10

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」ヨハネ10:3 羊の群れを見ました。てんでばらばらで、あっち向きこっち向きしながら草を食べ、 時に座り込み、時に反対の方向へ行きかけます。 それでも、牧者がいざなう方向に少しずつ群れは移動します。 それは、牧者が羊をよく導き、囲いの中に入れたり牧草のところに連れて行ったりしてくれるからです。 イエス様と羊である私たちも同じです。 イエス様の声を聞き分ける者であるように、日々主の家に住まいましょう。 祈り:神様、私を導いてください。そして、私もあなたの声を聞き分けることができるよう、霊の耳を開いてください。アーメン

ヨハネ9

「イエスはこたえられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」ヨハネ9:3 いつもこの箇所に癒され励まされます。 私たちが「神様、どうして?」と思った時、それは「神のわざが現れるため」かもしれません。 弱さのうちに働いてくださる強い神をほめたたえます。 祈り:神様、私の生涯を通じてあなたの栄光を現してください。アーメン

ヨハネ8

「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」ヨハネ8:12 羊の群れを見ました。 群れといっても、その中では、草をあちこち食べる羊、あっちを向く羊、座りこむ羊などてんでばらばらです。色や模様も違います。 けれども、羊飼いは強制せず、上手に群れを導いていました。 導きや主への従い方は人それぞれです。 しかし、イエス様が羊飼いであるとは何と安心かと思います。 世の光である主を見上げる者は光の中を歩ませて頂けます。 祈り:神様、今日もあなたを見上げて歩ませてください。私は私らしく主に従い仕えます。アーメン

ヨハネ7

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」ヨハネ7:47 「一人の罪深い女」と書かれた女性が、イエス様に香油をささげました。 多く赦された人でした。そして多く愛することができたとイエス様はおっしゃいました。 私たちは、キリストの救いを信じた時だけでなく、その後も自分の罪や至らなさ、足りなさに気づきます。 それは悲しく思えますが、より主を愛する者とされるためでもあります。 主と交わり、悔い改めと恵みの中に浸りましょう。 祈り:神様、多く赦してくださり感謝します。あなたを多く愛する者としてください。アーメン

ヨハネ6

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」ヨハネ6:48 日本では、信仰を持つのに時間がかかったり、しばらくすると教会生活から離れてしまう人が多いと聞きます。 しかし、日本だけの話ではありません。 モンゴルでは、新しく福音を聞いて受け入れるのは簡単だけれど、また別の新しい教えが入るとそちらに心を向ける人が多いのだと聞きました。 欧米でも信仰から離れる人がいるそうです。 私たちの土台が、岩の上に家を建てた人のようになるにはどうしたら良いでしょうか。 神のことばに根ざすことです。人や状況は変わるし、当てになりません。 変わらない神ご自身に土台を置くことです。 祈り:神様、私たち一人一人があなたのことばに基礎を置くことができますように。洪水や嵐にも流されない土台を置けるよう導いてください。アーメン

ヨハネ5

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ヨハネ5:24 イエス様の生涯は、徹底してご自身を遣わされた方ー父なる神様ーのみこころを行うこと、父に栄光を帰すことに集中したものでした。 神ご自身が人として来られ、神のみむねを体現してくださったという信じがたい恵みなのです。 イエス様がそうされたなら、私たちはもっと自分自身でなく神に栄光をお返しするよう歩みたいと思わされます。 小さな手柄(手柄とも言えないような)を自分のものにせず、神のものにすることが習慣となりますように。 祈り:神様、あなたのお名前だけがあがめられますように。あなたの栄光のために、大胆になれますように。あなたが願われることに集中できますように。アーメン

ヨハネ4

「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ4:50 まだ見ないものを、どうして信じることができるでしょう。 見えない神を、どうして信じることができるでしょう。 それが今日の多くの人の問いです。 しかし一方で、フェイクニュースや噂には惑わされてしまいます。 王室の役人は、カペナウムからガリラヤまでやって来て、息子の癒しを願いました。 カペナウムまで来てほしいと言う役人に、イエス様は「行きなさい」とことばを与えました。 信じるまでに、彼の内側にどのような葛藤と心の変化があったでしょうか。 それでも、その人はイエスが語ったことばを「信じて」帰って行きました。 それが信仰です。 私たちも、聖書のことばにかけてみよう、信頼してみようと思いませんか。 祈り:神様、信仰は理屈でなく「いっぺんそうしてみよう」という選択だとも言えます。私たちの小さい理性ではわからないことも、あなたはご存知です。私の親戚や友人が、聖書のことばに信頼してみよう、と選択することができますように。アーメン