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ガラテヤ6

「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」ガラテヤ6:2 「互いの重荷」とは何でしょう。 ここでいう「重荷」とは、良心や、倫理的な事柄や弱さを指しています。 キリストにある信仰の家族として、弱さを互いに補い、支え合ってキリストに従う生き方をしようと勧められています。 信仰の歩みには、羊のように仲間が必要です。ひとりでは迷い出てさまよってしまっても、群れとして互いに支え合い、キリストを先頭について行くなら安全です。 祈り:神様、(        )さんと出会わせてくださり、信仰の家族となりました。感謝します。「互いの重荷」を負い合います。主が先頭に立ち、私たちを青草の牧場に導いてください。アーメン

ガラテヤ5

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」ガラテヤ5:16 「あなたはどのくらい、御霊によって歩んでいますか?」 と問われたら、「いつも、起きている間じゅう」と言えますか? 私たちは、ついつい肉の性質で動いてしまう者です。 御霊の働く領域を広げていただけるよう祈りましょう。 祈り:神様、私は______の時、御霊により頼むより自分の肉で反応しがちです。 どうか優しく導き、気づきを与えてください。私の霊の耳と目を開いてください。アーメン

ガラテヤ4

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:7 律法の下ではなく、キリストの十字架の救いの下にあることが、どれほど素晴らしいか。 同時に、奴隷の身分から「子」になり、正式な相続権を持つ身分となったと言えます。 自由の素晴らしさを知ったら、また奴隷になりたいと思う人はいません。 しかし、私たちは時に律法的になったり古い肉の性質に戻ったりしてしまうことがあります。 神はそのこともご存知です。私たちの心に光を当て、気づきを与えてくださいます。 がっかりせず、聖霊による助けを求め感謝しましょう。 祈り:神様、私たちを一歩一歩導いてくださり感謝します。聖化の途上にある私たちです。私の心に光を当てて探り、聖霊が優しく気づきを与えてください。アーメン

ガラテヤ3

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」ガラテヤ3:24 聖書は、律法を必ずしも悪いものだとは言っていません。 それは罪を明らかにし、約束された神の救いが必要だということを人に示すから(NIV Study Bibleの解説)です。 律法は「養育係」です。 私たちがどこに行けば救われるのかを示します。 ですから、すでにキリストによって救われたのに「養育係」である律法に固執したり、パリサイ人のように律法的に人を判断しようとする姿勢がふさわしくないと言えます。 教会には様々な性格や境遇の人が来ます。自分と違うからといって避けたり裁いたりするのではなく、 「キリストを着」る(27節)者となれますように。 祈り:神様、あなたがキリストによりくださった救いと解放を感謝します。主にある自由を、教会で霊の家族と共に日々味わえますように。御国の相続人としてくださりありがとうございます。アーメン

ガラテヤ2

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ガラテヤ2:20 ガラテヤ人への手紙の中心テーマが16節にあります。 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」。 これをどれだけ受け取っているでしょうか。 ついつい自分の習慣、家族のしきたり、教会のいつものやり方、世間の常識と言われるものを押し付けてしまいます(自戒をこめて・・・)。 特に年末の慌ただしい時には、動いていないといけないような、じっと静まるのが悪いことのような錯覚に陥ります。 からみつく肉の性質を自覚しながらも、「もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言します。 祈り:神様、私のうちにキリストが生きていてくださると認めます。 年末で忙しくしている___さん、___さん、そして置き去りにされたような寂しさを覚える人達に、平安がありますように。私たちの焦る肉の性質を取り扱い、あなたの安息を受け取らせてください。アーメン

ガラテヤ1

「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、」ガラテヤ1:1 ガラテヤの人々に、パウロは自分をこのように紹介し始めます。 人間の努力や重用によってでなく、ただキリストと父なる神によって、自分が使徒として召されたのだ、と。 この章を読み進めると、パウロがこれまでの自分の歩みを書いているのがわかります。 かつてはクリスチャンを迫害していたこと。 救われてもその後、アラビアの荒野で訓練され、そしてようやくエルサレムに行ったこと。 自分のことは噂でしか知られていなかったこと、などです。 パウロは人に評価されることより、福音の恵みをただ伝えることに価値を置いていました。 私たちはいろいろなしがらみの中で生きています。 自分の働きが横取りされたり、正当に評価されなかったりということもあります。 仕事だけでなく、奉仕や兄弟姉妹のかかわりの中でも同じように感じることがあるかもしれません。 しかし、神がパウロをよく知っておられ、彼でなければできない働きに召されたように、 神は私たち一人ひとりをよく知っておられ、その人でなければできない働きに召してくださっています。 私にとって、あなたにとって、それはどんなことでしょうか。 祈り:神様、私の存在に価値があると言ってくださり、ありがとうございます。 あなたが私に望まれる生き方、奉仕へと導いてください。今日もみこころに沿った一日を生きることができますように。アーメン

IIコリント13

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」IIコリント13:13 いつも祝福の祈り(祝祷)で祈られるフレーズです。三位一体の神がともにおられることに感謝します。 祈り:神様、あなたがいつもともにいてくださること、決して私を見放さない方であることに感謝します。アーメン

IIコリント12

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」IIコリント12:9 「弱さのうちに完全に現れる」恵み、「十分である」恵みがすでに注がれている、ということばは、慰めを与えます。 自分では克服できない弱さ、足りなさを認め、主に明け渡し、キリストの力がおおってくださるという約束を握って今日も歩んでいきましょう。 祈り:神様、今日もあなたの恵みを確認することができました。足りなさ、弱さを あなたの前に認めます。プライドを打ち砕き、あなたの力が現れる者としてください。アーメン