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マルコ6

「するとイエスは彼らに言われた。『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」マルコ6:21 6章も目まぐるしいほどに、イエス様の公生涯の歩みが記述されています。 奇跡の数々、親類のバプテスマのヨハネの殉教の経緯、十二弟子の派遣、人々とのやりとり...。 その多忙な中でも、イエス様は静まりの時、ソリチュードを持っておられました。 そして弟子たちにも、しばらく休むようにと配慮してくださいました。 連休中、少しは休めたでしょうか。通常と変わらず出勤だった人もいるでしょう。つい動きすぎて、かえって疲れている人もいるかもしれません。 いつ、静まる時を持っていますか。イエス様は招いておられます。 たとえ多忙の中にあってもその時が持てることを、ご自身で示してくださいました。 祈り:神様、あなたの与えてくださる静まりの時を感謝します。日頃雑事に追われては聞くことのできない主の声、見ることのできない大きな絵を、主と共に過ごし見聞きすることができますように。アーメン

マルコ5

「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。」マルコ5:29 「すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。」マルコ5:42 マルコの福音書にはしばしば「すぐに」ということば出てきます。 5章でも、イエス様の癒やしが直ちに起こったことを示しています。 ただし、それまでの経緯は長いものでした。 女性は12年長血に苦しんでいました。 少女は一度死んでしまいました。 主の時が来たとき「すぐに」癒やしが起こったのでした。 それは彼らの願いよりも随分後のことだったでしょう。 主のご計画は、私たちの思いと違うタイミングで起こることが多くあります。 それまで、最善をなさる主に信頼しつつ待つ者でありますように。 祈り:神様、あなたの時を期待し信頼することができるよう、必要な忍耐と力を与えてください。今、祈りがなかなか聞かれないと感じている人に励ましを与えてください。私も________のことに、主の時を待ち望みます。アーメン

マルコ4

「イエスはまた彼らに言われた。『明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。』」マルコ4:21 福音は、ちょうど明かりのようです。 その福音の光を頂いた私たちがすることは、明かりを燭台の上に置くことです。 暗闇を光が照らすためです。 升の下や寝台の下に隠しておくためではありません。 福音の光を、家具の下や部屋の隅に隠していないでしょうか。 光はよく照らすところにおいても、むやみに減ることがありません。 福音も分かち合えば分かちあうほど、さらに豊かに輝きます。 昨日まかれたトラクトが、必要な方の手元で輝きますように。 祈り:神様、あなたの福音の光をまく働きをゆだねてくださり、感謝します。種を成長させてくださるのはあなたですから、結果に左右されず種をまき続けることができるよう、導いてください。アーメン

マルコ3

「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。」マルコ3: 10 連休中で、空港や観光地は大勢の人でいっぱいです。 その様子は、当時の人々がイエス様のところに押し寄せた光景と重なります。 「イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた」(9節)とあるほどです。 直接的には病気の癒やしが動機でしたが、そこに福音があることも人々は見聞きしました。 連休中の礼拝はどうでしょうか。外出していても、オンラインはもちろん、現地の教会を訪ねてクリスチャンの励ましを持つこともできます。 やがてリバイバルが起こりイエス・キリストを求めて教会に人が押し寄せる、マルコ3章の光景を見る日を期待します。 祈り:神様、キリストの福音がどれほど価値があり、永遠の喜びと楽しみをもたらすものか、まず私自身がよくわかりますように。リバイバルに備えて一人一人の霊性を整えてください。アーメン

マルコ2

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」マルコ2:22 私自身はアルコールを飲みませんが、年数の経つワインの方が価値があると聞いたことがあります。 それで、一瞬混乱して、古いぶどう酒の入る古い皮袋の方が価値があるのか、と思ってしまったことがありました。 そうではありません。 新しいぶどう酒は発酵して膨らむので、伸縮性のある新しい皮袋に入れなければならないということを、イエス様はここで言われました。 新しいぶどう酒とは、新約時代であり、新しいイエス・キリストの契約に基づく福音の時代です。 それを古い律法の袋に入れるではない、ということです。 私たちの心も、先入観を持った古い皮袋ではなく、新しい皮袋として、聖霊のダイナミックな働きを受け入れ、それに従う柔らかさを持てますように。 祈り:神様、私が新しい福音の契約に生きていることに感謝します。古い先入観や、不要な価値観から自由になれますように。主にある自由を味わいます。アーメン

マルコ1

「こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。」マルコ1:28 マルコの福音書は、主に外国人クリスチャンに宛てて書かれました。 イエス様の行為、何をなさったかにより焦点が当てられています。 そして「すぐに」という表現があちこちに出てきます。 1章を読むだけでも、マタイの福音書で何章にもわたって書かれていたことがコンパクトに、総集編のようにまとめられています。 学生時代、聖書をはじめて読む人のために昼休み聖書研究会が持たれていました。 そこでは、このマルコが用いられていました。 読書が苦手、聖書は難しそうという人にも、このマルコの福音書は読みやすいと言われています。 イエス様の姿がいきいきと表現されているので、楽しみに読みましょう! 祈り:神様、初めて聖書を読む時も繰り返し読む時も、知性だけでなく聖霊に頼りながら読めるよう、助けてください。マルコの福音書を通して、さらにイエス・キリストのことがよくわかりますように。アーメン

マタイ28

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:19~20 マタイの福音書の中で、もっとも印象に残るみことばの一つがこの「大宣教命令」です。 JEC聖会のメッセージでは、種にはいのちがあり、それが成長するのは神の領域であること、しかし種をまくのは私たちにゆだねられたことだと学びました。 救いに導き、信仰を成長させてくださるのは神様です。 すぐに実が見えなくても、種をまき続ける農夫のようであれば、神が思いがけない形で報いてくださいます。 祈り:神様、あなたのおことばに従って種をまきたいです。私にあった伝道やあかしの仕方に導いてください。あなたが成長させてくださる方であることに期待します。アーメン

マタイ27

「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である』」マタイ27:9 エレミヤ19:11、32:6-9、ゼカリヤ11:12-13がこの預言の引用箇所と思われます。 陶器師の畑を買い取ったこと、それが銀貨30枚だったことが語られています。 今日の私たちが旧約聖書から一部をつまみ食いのように拾い上げ、こじつけて解釈することは間違いです。 しかし、福音書を書いたマタイや聖書の記者たちは、神の霊感に導かれました。 そして、全体を読んでもそれは矛盾のないように組み合わさっています。 神の知恵と素晴らしさは人間の知恵を越えています。 細胞の中のナノ単位にも驚くべき世界が広がっているそうです。これもまた、神の知恵です。iPS細胞の山中伸弥教授にも「神がいると思えてしまう」と言わせるほどです(NHKスペシャル 人体3 第一集 命の源 細胞内ワンダーランド 2025.4.27放送)  祈り:神様、あなたの知恵、あなたのみわざは恐ろしいほどに素晴らしく、想像を絶するものです。過去、現在、未来にわたってあなたが全世界を支配しご計画を持っておられることに感謝します。その前にひれ伏します。アーメン