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ローマ11

「それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。」ローマ11:31 かつてのイスラエルの選びについてパウロは述べます。そして、今は不従順であることも。それは、キリストを救い主として信じず、福音を受け入れないからでした。 キリストが旧約聖書の預言の成就であったのに、それを信じないことを指摘しています。 今日のイスラエルは特別かどうかという議論があります。 しかし、その議論をする前に、イスラエルに限らず神の目にはすべての民族、すべての人が特別であるとわかります。 どの人も神のあわれみが必要であり、あわれみを受ける存在です。 だから、日本のために祈るように韓国、中国、・・・と国々のために祈り、イスラエルの為にも祈ります。 「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(36節) 祈り:神様、あなたはすべてのものの源であり、すべてを造られた方です。 造られた者として、神に栄光をお返しできますように。イスラエルをはじめ、世界の国々のために祈ることができますよう、福音宣教の働きへの目を開いてください。アーメン

ローマ10

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ10:17 「聴く聖書」CDやオンラインの「聴くドラマ聖書」をよく聞くという方がおられます。字が読みにくくなっても、みことばを枕元で聞きながら休むという方もおられます。 印刷術がない時代、多くの人にとって聖書は朗読されたものを「聞く」ものでした。 聞くことで信仰を養い、みことばの力を体験したのでした。 今も変わらず、神のことばであるみことばには力があります。それは心に届き、人生を変え、家庭や社会を変える力があります。 本やスマホアプリで、こんなに手軽にみことばにふれることができるようになりました。現代に与えられた大きな祝福の一つです。 祈り:神様、みことばに手軽に触れられることに感謝します。信仰の基であり、信仰を成長させ、キリストをより知るためのみことばを、私のたましいが慕い求めることができるよう、導いてください。アーメン

ローマ9

「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」ローマ9:20 この後、「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか(21節)」と続きます。 パウロは一つ一つ丁寧に説明していきます。 そして、この節ではよくわかるように陶器師と陶器の例を出しています。 すべては神の主権の元にあるので、造られた卑下したり比較したりするのは意味がないこと、文句や不平を言う必要がないことがわかります。 同時に、陶器師のように神様の大きな御手のうちにあること、心をこめて造られた私たちです。 それぞれの人に味があるということ、かけがえのない存在として造られたことを感じます。 どれほどの愛を神様は注いでくださっていることでしょう。 祈り:神様、陶器師であるあなたのみ旨によって造られたことに感謝します。 一人一人が主に愛され、価値ある存在であると知ることができますように。人生に絶望している人の元に、福音をあかしやトラクト、福音番組などを通して届けることができますように。アーメン

ローマ8

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」ローマ8:37 35節は「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と問いかけています。 「...苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」 肉体の痛みだけではなく、心の痛み、恥、恐れ、不安は私たちを揺さぶります。 この境遇のどこに希望があるのか、と思います。 しかし、そうした弱さがあるからこそ、いや弱さを通してこそキリストの愛が変わらないこと、キリストが栄光へと引き上げてくださることを、私たちは少しずつ教えられ、気づかされます。 挫折は挫折のままではなく、神様が次の章の扉を開けてくださることの備えだと、ある牧師先生がおっしゃいました。 一つの章を終え、次の章に導いてくださる主にあって、私たちは「圧倒的な勝利者」とさせていただけます。 祈り:神様、私たちを比較や劣等感から解放してください。うまくいかなかったことも含めてあなたの御手のうちにあり、運ばれると信じます。 今挫折感を覚えている_____さん、____さんを励ましてください。アーメン

ローマ7

「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」ローマ7:25 前の24節でパウロは嘆いています。 「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 というのも、善を行いたいのに自分の中には悪が存在し、肉の行いをしてしまうと自覚しているからです。 このパウロの嘆きは、私たち自身の嘆きでもあります。聖書の教えを聞いているのに、礼拝で「こうしよう」と決心したのに、ついまた失敗してしまいます。 しかし、パウロは続く25節で「それでも主イエスを通して、神に感謝する」と宣言します。 この弱さ、不完全さ、肉がまだ支配する至らなさをも、神が知ってくださっていること。 主の前に善を行いたいと願う思いが与えられていること。 その思いを与えてくださった方は、弱い私たちに聖霊をつかわし、肉を持ちながらも永遠のいのちの望みに生きることができるように導いてくださいます。 祈り:神様、私たちの弱さを知ってくださり感謝します。肉の思いに任せてしまい失敗します。聖霊の気づきと、悔い改めて向きを変える柔らかい心を与えてください。 ________のことについても、今日助け導いてください。アーメン

ローマ6

「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」ローマ6:11 この箇所にくると、いつも故我喜屋光雄先生を思い出します。 11節の「認めなさい」は「計算しなさい」「すでに計算ずみの伝票のようなもの」と聞いて、学生だった私は聖書の行間にメモしたことでした。 なんといっても、救いは行いではなく恵みによる、ということを繰り返し聞きました。 私たちの努力ではなく、キリストが成し遂げてくださったみわざです。 自分の感情ではぴんとこなくても、神様がすでに完了したと言われたから信じなさい、ということなのです。 肩の力を抜いて恵みに浸り、恵みが動機となって行動に至るのです。 毎週の礼拝も、主の恵みを確認し、その感謝で応答をする恵みの機会です。 祈り:神様、救いが信じる者に無条件で与えられる恵みであることを感謝します。このプレゼントの素晴らしさを日々味わう者となりたいです。気分や感情ではなく、救いの事実を認めます。一人一人が主を見上げる今日の礼拝に期待します。アーメン

ローマ5

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8 あこがれの人のために、なにか贈り物をしたことがありますか? 片想いかもしれないけれど、バレンタインにチョコをあげたということがありますか? 思いが届かないかもしれないのに、いのちまであげることができるでしょうか? それをしてくださったのがイエス・キリストです。 しかも、私たちがまだ罪人であった時に、すでになさったのです。 キリストを救い主として受け入れるかどうかは、私たちの自由意思にゆだねてくださいました。 言葉で表現するにはあまりにも大きく、あまりにも素晴らしいことです。 「どうしてそこまで」というほどの愛を注いでくださったキリストに、どのように感謝できるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛が大きすぎで、どう表現したらよいのかわかりません。でも、いつもその愛を思い返し、感謝したいです。導いてください。___さん、___さんの心にもこのキリストの愛が届きますように。アーメン

ローマ4

「しかし、『彼には、それが義と認められた』と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」ローマ4:23〜24 アブラハムの信仰が、私たちの義認と関係があるとは! 100歳で、人間的にはもはや望みがないと思った時に、アブラハムはそれでも神ならできると信じました。 私たちにも信じる心、信仰があれば義と認められるとは、なんと希望のある約束でしょう。 今日一日、じっくりとこの恵みを味わいたいです。 祈り: 神様、あなたの恵みを感謝します。「信仰義認」という言葉では到底表しきれない素晴らしい約束です。宝物を扱うように受け取りたいです。日々この素晴らしさを味わわせてください。アーメン